書評:西村佳哲『いま、地方で生きるということ』ミシマ社、2011年。

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 しかし思い返してみると、奈良のフォーラムで広瀬さんから聞いていた自然学校は、それともまた少し違うものだった。
 彼は多くの人が「田舎には仕事がない」と言うけどそんなことをないんだ、と話していた。それは勤め先がない、つまりいわゆる会社のような求人口がないだけの話で、人手が足りなくてできずにいる仕事はもう山ほどあるんだと。
 だから地域に入って、そこで暮らす人々と出会いながら、昔でいう便利屋のように働いてみればいい。彼らが困っていることを何でも手伝ってみるといい。給料はもらえなくても、生きてゆくための食料は手に入るだろうし、信頼を得れば居場所もできてゆくだろう。
 そんなふうに地域とかかわりあながら、ひいてはその土地の魅力や資源を外の世界にも伝えてゆくのが自然学校なんだと話していた。
 「えっ、でもその名前が自然学校なの?」と戸惑いを感じる人がいるかも。自然学校という言葉には、どうしても野外レクレーションのイメージが強い。
 でも広瀬さんにとって自然学校をつくることは、地域の人や自然と、ともに生きてゆく拠点づくりなんだということで僕は了解している。

 中でも「田舎に仕事がないわけじゃない」というくだりには強く頷ける。たとえば高知県は統計上は失業率が高く、沖縄や青森につづいて上位に並ぶ。移住コンシェルジェを務めていた知り合いも、「かかってくる電話相談には真っ先に『仕事はないですよ』と伝えます」と言っていた。が、じっさいに行ってみるとお見せを営んでいる人は多い。喫茶店の店舗数も全国一。勤め先としての企業が少ないだけで、全就業者人口における自営業主比率や県民所得における個人企業の割合は全国一だ。
 働き口がなくても、仕事は自分でつくってゆけばいい。
    −−西村佳哲『いま、地方で生きるということ』ミシマ社、2011年、28−29頁。

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帰りの電車のなかで、西村佳哲『いま、地方で生きるということ』ミシマ社、読了。『自分の仕事をつくる』(ちくま文庫)で、働くことや生きることを考察してきた著者が東日本大震災後の東北や九州を巡り、地方で生(働)きることを考えた本。酷評が多いけれど、僕自身は面白く読んだ。初のミシマ本。

内容はインタビューが中心。そしてこの本にその答えはない。(言い方は悪いけれども)「田舎の実像はそんなんじゃねえよ」と迷羅馬風イチャンを付けようとすればきりがない。しかし、筆者の聞き書きは、日本の田舎の挑戦の?今?をレポートしている。

自然学校の広瀬さんの言葉が印象的。「多くの人が『田舎には仕事がない』と言うけれどそんなことはないんだ、と話していた。それは勤め先がない、つまりいわゆる会社のような求人口がないだけの話で、人手が足りなくてできずにいる仕事は山ほどあるんだと」。

僕も18まで田舎で生活していたから理解できるけれども、まさに田舎には?勤め先?としての?仕事?は少ないし、勤め先の「肩書き」がないと都会以上にとやかくいわれる社会(日本的精神風土含めて)。しかしながら、人手が足りないのも実情。そこにどう挑戦するか。

権力や手抜きの就業行政に?ていよく?利用されることや、すり替えられた自己責任を金科玉条の如く奉ることは毛頭不要だけれども、日本の田舎での挑戦ははじまっていると思う。だからこそ、東京への一極集中へシフトがもう一度きられたことは、ものすごく逆風になってしまう。そこがねえ……、。

ムック本的な「いまこそ、地方で農業☆」には、記事自体が、都市で生成された勝ち組-負け組の枠組みに準拠しているから、正直、反吐が出る。しかし、東京に20年近くすんで理解できるものでもあるけど「生きてゆくためにお金が要る度合い」は、都市に近づくほど強く、遠ざかるほど弱いのは事実。

田舎の「しがらみ」自体は爆発しろなんだけど、脱サラしたらどうにかるなるべみたいな甘っちょろい幻想でもなく、「働く」ということが「生きる」ということとどう連動しているのかをもう一度、省察しながら、自身が働いていることや、その土地で生きていることを検討するきっかけにはなった感。



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