病院日記:「主婦の仕事」という観点



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 これは、産業社会で財とサーヴィスの生産を必然的に補足するものとして要求する労働である。この種の支払われない労役は生活の自立と自存に寄与するものではない。まったく逆に、それは賃労働とともに、生活の自立と自存を奪いとるものである。賃労働を補完するこの労働を、私は<シャドウ・ワーク>と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行う大部分の家事、買物に関係する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、運動に費やされる骨折りなどが含まれる。押しつけられた消費のストレス、施療医へのうんざりするほど規格化された従属、官僚への盲従、強制される仕事への準備、通常「ファミリー・ライフ」と呼ばれる多くの活動も含まれる。
さまざまな伝統的文化では、<シャドウ・ワーク>は、賃労働と同じくらい周縁的で確認しがたい場合が多い。産業社会では、<シャドウ・ワーク>は、日常のきまりきった仕事とみなされている。けれども、それは遠まわしの表現をまき散らしてその陰に身をひそめるものとなっている。単一の実在物として分析することに強いタブーがはたらくのだ。産業的生活は、それの必要性、規模、形を定めている。だがそれは、産業時代のイデオロギーによって隠されている。このイデオロギーによると、人々が経済のために強いられる活動のすべては、ほんらいの社会的なものであるとの理由で、仕事としてよりもむしろニーズを満たすものとみなされる。
    −−I・イリイチ(玉野井芳郎、栗原彬訳)『シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う』岩波現代文庫、2006年、シャドウ・ワーク、207−208頁。

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看護助手(ナース・エイド)の仕事に就いてちょうど一年たったので、少しだけ書き残しておきます。

仕事のほとんどは、まさに看護師の助手といったところで、そしてその従業者のほとんどが主婦の方が多いのだけど、仕事を始めたとき、その方々から「イメージとして主婦の仕事だよ」と言われましたが、1年間仕事をしてみて、その言葉の意味を深くかみしめている。

主婦の方自体が「主婦の仕事」と形容することを、生権力に馴致されている!などと告発しませんが、オムツの廃棄からベッドメーキングに至るまで−−シャドウワークというオイルがないと現実の世の中は回らないとは思った。それがいいことなのか、わるいことなのかは措くとしても。確かに看護師がやっても済むといえば済む。しかしいるといないでは、彼女・彼の本来業務がうまく遂行するかどうかといえば、支障をきたすとは言わないまでも、負担になることは間違いない。

さて「主婦の仕事」。もちろん、仕事だから当然それに対する対価が必然する。しかし職場から家を振り返ってみるならば、喩えが典型的すぎるかも知れないけれども、埼玉大学名誉教授・長谷川三千子大先生よろしく、役割分担業的に……そしてその強要恫喝する人間は安全地帯に居る訳なのだけど……これやってもらってトーゼン的な無償労働を強要して何ら恬淡として恥じらうことない精神とは訣別したいものだとは感じた。

それが伝統だ、文化だ、先例がそうなっている……とされる陰の部分に目を向けるたとき、そのいかがわしさが分かるのではないだろうか。

仕事をしながらそんなことを痛感している。



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