日記:たしかに英語のメニューあったほうが都合はいい「けど」の「けど」の部分

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先日、所用で慶應義塾大学三田キャンパスに寄った帰り、そこへいくとかなりの頻度でお世話になる立ち飲み屋に、早い時間ながら吸い込まれてしまいました(涙

カウンター越しにそれとなく聞こえてくるのが、店員さんのやりとりですけど……もちろん、常連さんはそこに「参加」されますけど……、耳を澄ませていると、面白いなあと思いましたのでひとつ書き残しておきます。

メニューの外国語表記の件なんですが、どうやら英語圏の方が「立ち飲み」しようと思ったようなのですけど、英語のメニューがないということで素通り。その案件を受けてなんですが、

「たしかに英語のメニューあったほうが都合はいいよなあ」

「じゃあ、今度、英語のしゃべれるスタッフを雇いましょうよw」

「ははは」

……って聞き流してしまえば済むような話ですが、やりとりを聞いていると、英語のメニューは容易していないけれども、それが豚が鶏か牛か程度なら、片言でやりとはできなくない。そして中国語のメニューはあるそうな。

思い出したのが、『朝日新聞』(2015年03月22日付)書評欄で紹介されていた寺沢拓敬『「日本人と英語」の社会学―なぜ英語教育論は誤解だらけなのか』(研究社)。

根拠のない言説をただす|好書好日

積読状態で恐縮です。

で……。
グローバル化の進展によって英語の必要性はますます高まっている−−。教育現場でも、職場でも、マスコミでもよくいわれることだ。こうした言説にはしかし、何の根拠もないことを本書は緻密(ちみつ)なデータ分析によって示す。それどころか2000年代後半には英語の必要性は減少さえしていると」と評者・萱野稔人さんは筆おこしますが、まあ、まさにそうなんだな、と回路が接続された次第です。

お恥ずかしながら、読み書きに不自由はしませんけれども、英語でビジネス! 英語で交渉! ってほど英語をパロールすることは私にはできません。しかし、現実にはそれが要求される場面がないゆえに、錆びていくというのが実情で、とにかく「英語ができればグローバルw」っていうほど、単純な話じゃないんだろうなあと気がつかされました。

もちろん、読み書きだけでなく、十全なコミュニケーションができて「おつり」がくるほど、使いこなすことにこしたことはありませんよ。しかしながら、僕自身もそうですが、筆談で事足りることもありますから、完璧な運用ができないからといって、不自由もないのが現実ですし、パロールが可能であるからといっても、それは読んで理解する。理解したことを活字として発信することとは同義ではありません。

そしてこれもどっちもどっちに近いところもありますし、運用の現在に不案内なところもあるのですが、その立ち飲みやさんがそうであったように、英語がグローバルスタンダードとされながら、外国語のメニューは中国語は用意してあったように、需要に目を向けると喧伝と齟齬はあるのかも知れません。

まあ、どうでもいい話ですけど、そんなことをちょいと感じた次第です。

繰り返しになりますけど、そりゃア、しゃべれないよりはしゃべれた方がいいとは思います。しかし、その人が関わっている世界において、何が重要になってくるのかということを勘案すると、コミュニケーションの「道具」という側面にだけリソースを注いで、果たしてグローバルなのかと考えれば、拙速な感は否めないですよね。

ええと、別にしゃべくりまくれないことを正当化しようという話ではありません。念のため。ただ、すかし屁を一発こいておくと、大学入試の難関校の些末な虫穴問題なんでもござれみたいなのはどうでもいいですけど、きちんとした読み・書きの基本の方が、日本で日本語をメインとして使う人間にとっては、重要なスキルになるのではないかと思います。







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