覚え書:「今週の本棚:中島岳志・評 『李光洙−韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』=波田野節子・著」、『毎日新聞』2015年08月09日(日)付。

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今週の本棚:中島岳志・評 『李光洙−韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』=波田野節子・著
毎日新聞 2015年08月09日 東京朝刊
 
 ◆『李光洙−韓国近代文学の祖と「親日」の烙印(らくいん)』

 (中公新書・886円)

 ◇先人の苦悩への謙虚なまなざし

 日本人の中で李光洙(イグァンス)の名を知る人はどれだけいるだろうか。彼は「韓国近代文学の祖」として知られ、1917年に書いた『無情』は、韓国文学史における最初の近代的長編小説と言われる。一方、長きにわたって「親日」作家として糾弾され、「民族反逆者」というレッテルを貼られてきた。毀誉褒貶(きよほうへん)にまみれた彼の人生とはいったい何だったのか。

 李の生家は、かつて高位官職を輩出する家柄だったが、祖父の代から没落が始まり、父の代で資産を食いつぶした。しかも、両親が相次いで他界。幼い2人の妹と共に、親戚の家を転々とする半放浪生活を送った。

 彼は奨学金を獲得し、日本へ留学する。しかし、日露戦争後の日本は大韓帝国保護国化し、支配の度合いを強めていた。彼は日本に対して反発しながら、一方で文学に夢中になる。木下尚江(なおえ)やトルストイから鮮烈な影響を受け、創作を開始した。

 1910年に一旦帰国し、教員として働いたものの、大陸放浪を経て、再来日。早稲田大学に入学した。文筆活動に力を入れていると、ある日、朝鮮総督府の機関紙から原稿依頼が舞い込んだ。論考発表後に連載欄を獲得し、『無情』を発表。これが大きな話題になり、一躍、注目作家となった。

 李は次第に独立運動に関与し、一時帰国中の1919年1月、仲間とともに朝鮮青年独立団を結成した。彼は独立宣言書を起草し、「日本に対し永遠の血戦を宣すべし」と訴えた。その後、上海に亡命。新韓青年党の活動に加わり、「大韓民国臨時政府」樹立に参与したが、内部分裂による運動の停滞に反発して帰国。政治性を抑制した合法的活動を続けることで、「民族の力」を醸成しようとした。

 日中戦争を目前に控えた1937年6月、李は逮捕される。日本政府は穏健化した運動に対しても嫌疑のまなざしを向け、管理を強化した。彼は間もなく保釈されたものの運動の方向転換を迫られ、同志とともに転向声明書を発表。天皇への忠義を誓い、八紘一宇(はっこういちう)を日本国民として共に追求することを明言した。

 李は天皇主義に基づく「内鮮一体」の論理を転用し、朝鮮人差別の撤廃を訴えた。同じ「天皇の赤子」である以上、朝鮮人を対等に扱うべきであると、日本人に対して訴えたのだ。一方、日本の帝国主義的政策への順応は加速する。彼は「香山光郎(かやまみつろう)」と創氏改名し、日本語で小説を書いた。読者のほとんどは日本人。彼はそのことを意識し、朝鮮人天皇の臣民であることを切々と訴えた。それは「朝鮮人を同胞として愛してほしい」という痛ましい叫び声だった。

 李は日本の敗戦を53歳で迎えたが、同胞から「親日派」として厳しい糾弾にあった。反民族行為の容疑で検挙され、尋問を受けると、静かに言った。「私は民族のために親日をしました」

 李は朝鮮戦争の最中に北朝鮮へと連行され、行方不明となる。そして現在まで、生死の詳細は分かっていない。

 「韓国近代文学の祖」の生涯とは何だったのか。右派/左派、親日反日という単純化された歴史観が政治化する中、彼が抱え込んだ矛盾・葛藤・懊悩(おうのう)と向き合うことにこそ意味があるのではないだろうか。私たちに要求されているのは特定の歴史観による歴史の所有ではなく、先人の苦悩に対する謙虚なまなざしであろう。

 本書は安易な結論を出さない。そのスタイルこそが、著者の歴史に対するスタンスを表している。戦後70年にふさわしい一冊だ。
    −−「今週の本棚:中島岳志・評 『李光洙−韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』=波田野節子・著」、『毎日新聞』2015年08月09日(日)付。

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