覚え書:「今週の本棚:若島正・評 『エニグマ−アラン・チューリング伝 上・下』=アンドルー・ホッジス著」、『毎日新聞』2015年10月04日(日)付。

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今週の本棚:若島正・評 『エニグマアラン・チューリング伝 上・下』=アンドルー・ホッジス著
毎日新聞 2015年10月04日 東京朝刊


 (勁草書房・各2916円)

 ◇天才を機械の歯車にする歴史の無慈悲

 わたしは十八歳のとき、岩波書店から出ていたM・デーヴィスの『計算の理論』を読んで、初めてチューリング機械というアイデアを知った。そのときの驚きは、いまなお記憶に残っている。高校生にでも理解できるような、わかりやすいいくつかの操作を元にしたチューリング機械というモデルを想定するだけで、そこから人間の知性が論理でつきとめられる世界の範囲と限界が描き出されていたのだから。考えるということを、子供が初めて世界を見るように、これほど新鮮な見方で考えた例はないのではないかと思う。『計算の理論』では、そのチューリング機械というアイデアを生んだ、アラン・チューリングという数学者については、それほどくわしく記述されていなかったように憶(おぼ)えている。それもそのはず、『計算の理論』は原書が一九五八年の本であり、それ以降、アラン・チューリングが第二次大戦中に、エニグマと呼ばれるナチス・ドイツの暗号機械の暗号解読に携わって功績があったことや、同性愛者であり、そのせいで逮捕され有罪になったという、新しい事実が知られるようになった。今ではすでにチューリングは大衆の想像力をかきたてる人物となり、『イミテーション・ゲーム』という、彼をモデルにした映画も作られたほどだ。

 本書『エニグマ アラン・チューリング伝』は、原書の初版が一九八三年に出た、チューリングの伝記としては決定版と呼ぶべき大著である。B・ジャック・コープランドによる伝記『チューリング 情報時代のパイオニア』(NTT出版)もすでに邦訳が出ているが、コンピュータ科学の創始者という側面を強調した、ダイジェスト版のようなその伝記に比べれば、膨大な資料を駆使して、チューリングの人生のあらゆる瞬間あらゆる側面を再現している本書は、圧倒的な読み応えがある。

 題名の『エニグマ』は、すでに述べたドイツの暗号機械の名前から取られたものだが、当然ながらそこには、チューリングという人物じたいが「エニグマ(謎)」だという含みもある。しかし、本書を読み終えた読者にとっては、もはやチューリングは謎の人物ではない。著者アンドルー・ホッジスは、チューリングの研究者としての途方もない業績を充分に評価しながらも、けっして彼を神格化することなく、複雑な世界の中で「何かをしたいという欲求に駆り立てられながらも、普通でありたい、静かに一人でいたいと思っていたことが、一貫して彼の問題のすべてだった」とその限界を指摘することも忘れない。

 一九三六年の記念碑的な論文『計算可能数』から、暗号解読、人工知能や人工生命の基礎となる研究など、チューリングの関心は多岐にわたっているように見えるが、本書を読むとそこに一貫したものが流れているように感じられる。それは、「抽象的なものと物理的なもの」あるいは「記号的なことと現実的なこと」を結びつけようとする欲求であり、それはまた、「同性愛者で無神論者で数学者であること」の難しさでもある。チューリングが戦争中は「他人が掘った穴を埋める知的作業」である暗号解読に従事したことを、著者は「人間の歴史にとっては損失」だと評する。チューリングのような天才が思いのままに才能を発揮できるような、理想的な社会を想像することは夢想にすぎないのだろうか。わたしたちはここでもまた、己の内的一貫性に忠実であろうとする一個人をエニグマ機械の歯車にしてしまうような、歴史や社会の無慈悲な力を感じざるをえない。(土屋俊、土屋希和子、村上祐子訳)
    −−「今週の本棚:若島正・評 『エニグマアラン・チューリング伝 上・下』=アンドルー・ホッジス著」、『毎日新聞』2015年10月04日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20151004ddm015070008000c.html



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