覚え書:「火論:無名市民の抵抗=玉木研二」、『毎日新聞』2016年1月19日(月)付。

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火論
無名市民の抵抗=玉木研二

毎日新聞2016年1月19日
<ka−ron>

 戦後ドイツでは事実上「禁書」になっていたヒトラーの著作「わが闘争」が8日、出版された。著作権切れによるが、偏狭な歴史観と野望、人種観などナチズムの骨格となった内容に出版に反対の意見も多いという。

 このため、出版に際し、原著の言説に詳細な批判的解説をつけ、本は原著に倍する分厚さになった。

 いまだこういうことがニュースになるほど根は深い。

 1933年1月、政権の座に就いたヒトラーは3月には全権委任法を通してワイマール憲法を死文化し、独裁の道を突き進んだ。

 「千年王国」を唱えたその政権は12年余で破滅したが、民主的制度の中から、なぜこのような排他、独善の暴力的政権が誕生し、国民の圧倒的支持を得たか。

 その問いは今にも通じ、国を超えて各分野から検証や考察の書が絶えない。

 その中で近刊の1冊「ヒトラーに抵抗した人々」(中公新書)からは「名もなき市民の抵抗」という新たな視点を教わり、心が動いた。

 著者の教育学者、対馬達雄さん(70)はドイツの反ナチ抵抗運動の研究などで知られる。時代の動きの中で「人間はどう生きるか」。それを自らに問い、抵抗の行動に出た市民たちがいた。

 例えば、ある研究によると、強制移送を逃れドイツ国内に潜伏したユダヤ人は1万5000人。支援者は、張り巡らされた監視、密告の網をかわして危険な選択をした。

 転々とする隠れ家、食料、衣服、証明書の用意……。1人の支援には7人以上が必要だったともいわれる。

 国内に潜伏し生き延びたユダヤ人は5000人と推定され、一般市民の支援が効果を上げたとみられる。

 だが戦後に支援者顕彰のため名乗り出を求めても多くは黙した。彼らは「沈黙の勇者たち」と呼ばれる。

 このほか、教会、知識人、軍人、学生らによる命がけの抵抗の軌跡も興味深いが、私は、姿なき市民の影に最もひかれるのである。

 今、ドイツでは「難民」で国論が揺れ、時として排外主義的な主張と、それを戒める声とが交錯する。

 それはドイツ固有の問題ではない。それでなくとも今何かと極論的発言が、世界のあちこちでまるで時を得たように盛んである。普通の市民の感覚(人それぞれだろうが)でとらえ、静かに語り合うすべはないものか。

 70年以上前、黙々と行われた支援に思いを致す。(専門編集委員
    −−「火論:無名市民の抵抗=玉木研二」、『毎日新聞』2016年1月19日(月)付。

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