覚え書:「今に受け継ぐ戦争俳句 朝日俳壇選者・金子兜太さん講演」、『朝日新聞』2016年08月11日(木)付。

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今に受け継ぐ戦争俳句 朝日俳壇選者・金子兜太さん講演
2016年8月11日


金子兜太さん
 朝日俳壇選者の俳人金子兜太(とうた)さん(96)が、俳句を通じて戦争と戦後社会への思いを語るイベントが7月25日、朝日新聞東京本社の読者ホールで開かれた。戦争俳句が生まれた経緯やその意味、戦後への影響をさまざまな句を通じて説き起こし、自身の戦争体験も交えて反戦への強い思いをにじませた。

 金子さんは、戦争俳句を語るうえで重要という、昭和初期の新興俳句運動から語り始めた。当時「客観写生」を是として俳句界で大きな力を持った高浜虚子に対し、主観を重視した水原秋桜子(しゅうおうし)らの活動が新興俳句運動へつながった。

 金子さんの父で俳人の金子伊昔紅(いせきこう)は、友人の秋桜子に共鳴して俳句を始めた。金子さんは、埼玉・秩父の自宅に近隣の30〜40代の男性が集まって句を詠む姿を覚えている。

 戦争の時代に突入し、新興俳句の担い手の多くがその現実に向き合った。金子さんは長谷川素逝(そせい)の1937年の句を挙げ「この辺りから俳句がもろに戦争と取り組み始めた」と述べた。

 《雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り》

 素逝は同年に出征し、39年に戦争を詠んだ句集『砲車』を刊行した。

 戦場体験に基づく「前線俳句」だけでなく、戦場を想像して詠む「戦火想望俳句」も生まれた。

 《逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ!》(38年)

 西東三鬼(さいとうさんき)のこの句は「官憲ににらまれただろう」と金子さん。個人の内面や自由を大切にする新興俳句は権力側に警戒された。その象徴が、40年の俳誌「京大俳句」弾圧事件だ。新興俳句を代表する平畑静塔(せいとう)、渡辺白泉(はくせん)、三鬼ら15人が検挙された。

 金子さんは、白泉を「最も鋭い戦争批判の句を作った」と評価する。

 《戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり》(38年)

 《戦争が廊下の奥に立つてゐた》(39年)

 同世代の鈴木六林男(むりお)も、反戦的な句を多く残した。

 《負傷者のしづかなる眼に夏の河》(41年)

 一方、戦争は新たな季語も生んだ。バナナやマンゴー、椰子(やし)、スコールなど。日本が統治し、戦場となった南洋の風物で、虚子は「熱帯季題」として歳時記に加えた。今は普通に使われており、「戦争の影響が今に続いていることを知ってほしい」と金子さん。

 金子さん自身も、海軍主計中尉として南洋トラック島に出征。終戦で米軍捕虜となり、46年に帰国した。

 《水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る》(55年)

 仲間が過酷な飢えや戦いで死んだ島が遠ざかるのを船尾から見つめて詠んだ。「彼らの無残な死に報いなければと誓ったんです」

 被爆地も詠んだ。

 《霧の車窓を広島走せ過ぐ女声を挙げ》(55年)

 《彎曲し火傷し爆心地のマラソン》(61年)

 1句目は、夕刻に広島駅で見かけた女性。ケロイドを隠すように立ち、おそらく身を売って生きていた。2句目は長崎で。爆心地に至る峠道のランナーを見て「人間の体が曲がり、焼けて、崩れていくイメージが浮かんだ」という。「俳句は、優れた映像的イメージを(頭の中で)作り出し、それを書きとめたもの」と自身の俳句観を語った。

 俳句の世界で、戦前・戦中と戦後とは断絶せず、むしろ流れは今に受け継がれているとしたうえで、「あんな無残な戦争は二度と、誰にも体験してほしくない」と何度も強調した。

 戦後70年の節目の句が、一筋に変わらぬ思いを表す。

 《朝蝉よ若者逝きて何んの国ぞ》(2015年)

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 金子さんが戦場体験と現代への危機感を語った『あの夏、兵士だった私』(清流出版)が今月、刊行された。(小川雪)
    −−「今に受け継ぐ戦争俳句 朝日俳壇選者・金子兜太さん講演」、『朝日新聞』2016年08月11日(木)付。

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今に受け継ぐ戦争俳句 朝日俳壇選者・金子兜太さん講演:朝日新聞デジタル


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