日記:「日本教」という寄らば大樹の陰、宗教はインチキみたいな錯覚に非がってきたのが宗教社会学でいうポストコロニアルの「民衆宗教」というムーブメント

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先日、日本人の宗教観とその負荷を覆す民衆宗教の意義について少々お話をしてきたのだけど、そのお話というのは学術的なお話です。

宗教は「アヘン」という負荷があるにも関わらず同時に「究極的関心事」であるという人間にとって切実的な問題である訳なので、きちんと宗教について学ぶ必要があるわけです。

特にこの国では、宗教が権力によって骨抜きにされた経緯があるので、宗教は「弱いものがすがるもの」みたいな認識がある。それは宗教に対する錯覚であろう。しかし、弱いものがすがって何が悪いのかには答えない「日本教」こそ最大の負荷だがそれは横に置く。

そういう寄らば大樹の陰、宗教はインチキみたいなものに、非がってきたのが宗教社会学でいうポストコロニアルの「民衆宗教」というムーブメントだ。その特徴は、自己認識として「社会的文脈におけるマイノリティーの自覚」、そして「主権領域権力から抑圧された伝統」を持ち、被支配者および被抑圧者の立場に立つ宗教運動を「民衆宗教」と言って良いだろう。

しかしながら、抑圧された結果、国家権力にすり寄り、迎合して存続をはかろうとする宗教運動も歴史上数多くあったのも事実であり、それは国教としてのキリスト教や鎮護仏教を引証するまでもなく自明のことだ。そうした事例は、民衆宗教からの逸脱・変容といってよい。

そういう日本宗教史の話なんですが、人生の大先輩といってよい聴講された方から「私は数多くの講演や報告を聞いてきたが、最初から最後まで緊張と共感をもって熱心に聞いた講演は、今回が初めてであった」とお褒めを頂きました。やらんかなですな。




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