覚え書:「激動する世界と宗教 見えないものにふれる 批評家・若松英輔さんに聞く」、『朝日新聞』2017年08月08日(火)付。

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激動する世界と宗教 見えないものにふれる 批評家・若松英輔さんに聞く
2017年8月8日
 
若松英輔さん
 成熟した国家とも言われる日本。しかし、若者はSNSで他者と細くつながり、死生観の揺らぐ高齢者は「終活」に戸惑う。私たちの精神性は豊かさを失ってはいないか。そんな時代に、宗教はどんな意味を持ち得るのだろう。批評家の若松英輔さんに話を聞いた。

 「人は昼間、無神論者でいられる。しかし夜、ひとりになったとき、その人は信仰者になる」と語った人がいます。神は存在しないと昼間は言うことができても、夜、例えば大切な人を思い、その平穏を何ものかに祈ることがある。

 日ごろ私たちは人間を中心とした世界の「表層」を生きています。そこでは無神論者たり得ても、深層の世界では無神論者たり得ないのかもしれません。

 目に見えるもの、量によって測れるもの、それらの秩序に慣れて、インターネットで検索すれば必要なことは分かる気がする。いつの間にか人はそこに「ほんとうのこと」があると思い込んでいるのかもしれない。しかし、その一方で「ほんとうのこと」は言葉にならないとも感じている。言葉は目の粗い網のようなもので、本質という魚はその隙間から逃げてしまいます。

 「なぜ宗教を問い直すのか」という問いの背景には、私たちが知性と理性の網からこぼれ落ちる宗教との関係を見失ったという現実があるのでしょう。ここで「宗教」という場合、特定の宗教集団を指しているのではありません。人間を超えたものとの関係そのものです。

 人間を超えたものや他者との有機的なつながりのなかに自らの生きる意味を見出(みいだ)していくこと、それは特定の宗教に属するかどうかとは関係なく、人間がおのずから希求する根本感情です。特定の宗教に入れば宗教性が豊かになるとは限りません。集団としての宗教が、その深化と変貌(へんぼう)を阻害することもあります。

 特定の集団のなかにありながらも個は個のままで、どう他者とつながることができるか。本当に宗教と呼べるものは個性を埋没させないはずです。

 現代は何かを成し遂げた人を評価し、困難の中にある人からは遠ざかる。しかしそれでは、困難を抱えた人だけに宿っている英知が感じられなくなる。こんなに多くの苦労を背負った。だからこそ幸せを感じる。宗教はこうした世界があることを教えてくれます。

 また、このような宗教的世界観は、私たちを人間が中心たり得ない場所へと導いてくれます。そのときはじめて敬虔(けいけん)と呼ぶべき宗教感情が生まれる。

 現代人は寿命をわずかに延ばせるようになっただけなのに、全知全能になったかのように語ることがあります。しかし、人は全知全能という言葉を用いていても、それが何であるかを知りません。それは同時に神とは何か、その全貌(ぜんぼう)を知ることはできないことを意味しています。ここが宗教の原点なのではないでしょうか。

 いま、私たちに必要なのは討論の時間ではなく静寂のときなのかもしれません。見えないものにふれる時空を生み出し、語り得ない存在をめぐって自己との対話を深める。そのとき人は祈りと呼ばれるものの源泉にふれるように思います。

 祈るとは人間を超えたものに何かを頼むことではありません。彼方(かなた)からの声を聞くことです。沈黙の中に無音の声を感じとることだともいえるように思います。

 (談)

     ◇

 連続シンポジウム「激動する世界と宗教――私たちの現在地」(角川文化振興財団主催、朝日新聞社・KADOKAWA共催)の第1回が19日、東京で開かれる。若松さんの講演も。

 ■核心を問う動き、広義の宗教とは

 宗教研究者は特に1990年代後半から「スピリチュアリティ」という概念に注目するようになった。特定の信仰を持たない人も経験する「見えない何かに触れる感覚」を指す。いわば宗教の核心部分で、教義や宗教儀礼などは必ずしも関係ない。例えば宮崎駿監督のアニメのように、特定の宗教を背景とせず、豊かな宗教性に満ちた作品なども研究対象とされた。現代の宗教的な感覚を理解するための試みだ。

 若松さんが語ったことは広義の宗教についてであり、「そもそも宗教とは何か」という本質的な問いかけなのである。

 (磯村健太郎
    −−「激動する世界と宗教 見えないものにふれる 批評家・若松英輔さんに聞く」、『朝日新聞』2017年08月08日(火)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S13076818.html





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