日記:「日本人として誇りを持てた」という感覚の無気力肯定ビジネスへの近さ


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 『cool japan』という番組に、「日本人として嬉しかった」「日本人として誇りを感じた」「日本人として生きる勇気をもらった」という感想を視聴者からもらうことがあります。
 番組ですから、まして、NHKですから、視聴者の反応はとても大切です。大切ですが、僕は「日本人として誇りを持てた」という熱烈な感想には少し戸惑うのです。
 番組では、なるべく辛口の外国人をメンバーに入れようとします。外国人も日本滞在が長くなってくると、日本が好きになる人が多く(それはとてもありがたいのですが)、だんだんと「クール」だけを言うようになるのです。番組もなにかを紹介した後、ナレーションで「クールでしょ」と断言するのではなく「クールですか?」と問いかける形をなくさないようにしています。
 なるべく、客観的に紹介したいと思っているのです。
 「無気力肯定ビジネス」という言い方があります。「今のままでいい」「がんばらなくてよいんだよ」「ありのままの自分を愛する」というようなタイトルの本と周辺の展開のことです。つまり「あなたはあなたのままで素晴らしい」とささやくようなものすべてです。
 この言葉は疲れた人の心に麻薬のように染み込むでしょう。なにもしなくても素晴らしいということは、自分はそのままで最高だということです。こんなに感動的なことはありません。
 実は「日本人として誇りを持てた」という感覚は、この無気力肯定ビジネスに近いと僕は思っています。日本人であることだけで、無条件で素晴らしいのなら、自分はなにもしなくてもよくなります。それはなんと甘美な状態でしょうか。けれど、少し考えれば、それはおかしいことだと気づくはずです。
 世界はどんどんギスギスと不寛容になっていると書きました。不安がマシてくると、自分が日本人である、ということだけでなにか素晴らしい存在になったと思い込みたくなるものです。
 マンガ家のしりあがり寿さんのツイッターに、「久しぶりにネットやテレビを存分に見たら、何やら『日本はいい国』みたいなメッセージが多くて怖くなった。八〇年代のディスカバージャパンのキャンペーンを思い起こせば、あれは『日本を振り返る』みたいな余裕が感じられた。だけど今は『ニッポンにしがみつく』崖っぷちの感じ。ブルブル……」というのがあって、思わずヒザを叩きました。僕が言いたかったことは、こういうことなのです。
 もちろん、僕だって「ストレート・パーマ」や「日本の職人」を知ると、日本人として誇らしくなります。日本人に生まれたことを喜びます。けれど、それと、日本人であるというだけで無条件に偉くなったと感じることは別だと、自分を戒めるのです。

 それでは「クール・ジャパン」を知り、楽しむ意味はなんでしょうか。
 それは、冒頭に書いたことの続きですが、結果的に自分をよく知ることになるということだと思います。
 東洋と西洋、日本とアジア、さまざまなものがぶつかることで、いろんなことが見えてきます。
 二つのことがぶつかると、意外なことを思いつきます。もう行き詰まったとか、もうダメだと思った説きに、思わぬ方向から発想が浮かび、事態を打開できたことは誰にもあると思います。
 そのきっかけをくれるものが、クール・ジャパンだと思うのです。クール・ジャパンを知り、楽しむことは、未知なる自分と未知なる世界を知り、楽しむことと同じだと思うのです。
    −−鴻上尚史クール・ジャパン!? 外国人が見たニッポン』講談社現代新書、2015年、232−234頁。

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