覚え書:「高橋源一郎の「歩きながら、考える」 選挙カー上から降り注ぐ「CM」」、『朝日新聞』2017年10月28日(土)付。


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高橋源一郎の「歩きながら、考える」 選挙カー上から降り注ぐ「CM」
2017年10月28日
 
写真・図版
雨が降り、傘の花が開いた選挙戦。渋谷駅前で、小池百合子希望の党代表の演説を聞く高橋源一郎さん(中央)
 
 小池百合子東京都知事が立ち上げた希望の党衆院選で旋風を起こすかとみられましたが、結果は「完敗」でした。選挙中、街頭での演説に足を運んだ作家・高橋源一郎さんは、小池さんと彼女へのまなざしの中に何を見たのでしょう。寄稿を掲載します。

 選挙戦の間はずっと雨だった。

 どんな選挙で、何が争点だったのか。マスコミやネットで、たくさんの人がたくさんのことをいったり書いたりしていた。けれど、わたしが考えてみたかったのは、そこにはない、別のことだった。

 何度か、候補者たちの演説を聞きにいった。雨の中で、傘をさして。寒い思いがしたが、それは、天候のせいばかりではなかった。

 選挙カーの上の候補者たちは、一様に白いたすきをかけ、手を振り、笑みを振りまいた。そして、演説し、お願いするのである。形はいつも同じだ。候補者たちがいうことは、少しずつちがっていた。だが、それでも、同じ感想を抱くことが多かった。

 どんな感想か。ひとことでいうのは難しい。そう思っていたら、選挙演説を聞いたある有権者の感想を、ネットで、偶然見つけた。

 そこにもわたしと似た思いをした人がいた、と感じた。

 「有権者には金の話がいちばん大切、と政治家は思っているらしいが、それ以外のことも大切と思い、考えているんだ」

 選挙戦最終日の夜、池袋で、ある候補者の演説を聞いた。まず、わたしの知らないたくさんの関係者や地元の有力者が紹介され、そのあと、候補者が車の上から演説をした。唐突に、議員定数の削減の話が始まり、税金を大事に使うことが必要だ、というようなことをいった。他にもしゃべったかもしれないが、よく覚えていない。

 確かに、それも大切なことなのだろう。けれど、雨の中、傘をさしながら聞きたいのは、そのことではないような気がした。

 その演説の後、今回の選挙の主役の一人、小池百合子さんの応援演説があった。その中で小池さんは「真の意味の、新しい日本の設計図」とか「見かけ倒しの改革ではなく、真の改革」といったことばを使ったようだった。気のせいかもしれないが、1週間ほど前に聞いた渋谷での演説に比べ、心ここにあらずに見えた。何百回も同じことばをしゃべっているので、疲れたか飽きていたのかもしれない。

 わたしには退屈だった。というより、そのことばは、少なくともわたしに向かって話されたものではないように感じられた。それが「政治」だとするなら、自分はその部外者であるように思えた。

 わたしはなんでも読むが、政治家が書いたものも読む。その人がなにを考えているのかを知るには、書いたことばを読むのがいちばん早いと思っているからだ。

 あるとき、小池さんと同じように個人的な人気で「風」を起こした、橋下徹大阪市長のことをよく知りたいと思い、彼の本を集められる限り集めて読んだ。彼が政治家になる前、弁護士時代のものが圧倒的に面白かった。

 彼は、その中で繰り返し、相手をやっつけるためにはどんな手段をとってもかまわない、と説いていた。他人を信用するな、ただ利用するだけでいい、とも。彼の、その暗い情熱が、わたしは嫌いではなかった。

 小池さんの本を集めたのも、同じ理由だった。そして、その多さに驚いた。本の中で小池さんは、様々な事例をあげ、数字とカタカナ英語を駆使して、流れるように語っていた。流暢(りゅうちょう)すぎて、こちらから話しかけるすき間がない。そんな感じがした。そして、しばらく読んでゆくと、どこかで読んだことがあるような気がしてくるのだった。

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 「ビジネスでも政治でも『マーケティング目線』が大切です。私はマーケティングの感覚を大事にしており、『マーケティング戦略』のビジネス書も好んで目を通します。そこでよく書かれているのは、『自分がどう思うか』だけではなく……『周囲の環境から考えてどう判断されるか』が重要なのです。……常に自分の価値を戦略的に磨き続ける。常に磨き続けないと市場で埋没してしまうのです」(「希望の政治」)

 それはビジネス書の文体そのものだったのか。そして、この文体の中に、個性を持つ「私」はいないのだ。

 いや、そこには、そもそも誰もいない。「無」がぽっかり口を開けているように思えた。

 「周囲の環境から考えてどう判断されるか」がいちばん大切なのだから、なんにでもなれる自分がいちばんいい。めんどうくさい思想や信念はいらないからだ。

 「マーケティング目線」を大切にする政治家にとって、有権者は、「消費者」にすぎない。だとするなら、あの車の上から投げかけられることばのシャワーは、テレビのCMから流れてくるものとまったく同じなのである。

 いうまでもなく、「マーケティング目線」の政治家は、小池さんだけではないのだけれど。

 車の上の人にとって、「下」にいる有権者たちは、ヒットしそうな政策を喜んで受け取ってくれる「消費者」だ。寒い雨の中で、候補者たちの演説を聞きながら、寂しい気持ちになったのは、自分はただの「消費者」ではない、もっと別のことも考えているのに、みくびられているような気がしたからだろうか。

 小池さんが、一時的であれ、大きな「風」を起こしたのは、有権者がそこに、他の政治家にはない何かを感じたからだ。それが、単なる「消費者」向けの広告のことばかもしれないと気づくまでは。

 選挙戦最終日、小池さんが作った党と対抗するように生まれた、新しい党の新宿での演説会にも出かけてみた。演説の声は聞こえたが、話す人の姿は見えなかった。車の上からではなく、「下」で、聴衆の中に入りこんで話していたからだ。そのことは、わたしには好ましいことに思えた。「上」から見るのとはちがう風景が見えるはずだから。

 それから、聞こえてくることばのなかに「選挙で終わりではなく、それからずっと、わたしたちをチェックしてください」というものもあった。そのことばも好ましいものに思えた。そこでは、どうやら、わたしは単なる「消費者」ではなく、やるべき役割があるようだったからである。

 周りで拍手が起こった。だが、わたしはしなかった。そう、まずわたしがしなければならないのは、そのことではないように思えたから。

 ドイツの思想家、ハンナ・アーレントは、死後刊行された「政治とは何か」という本の中に、いくつもの不思議な断片を残した。

 彼女は、私的な生活や家族のつながりを超え、「家」の敷居の向こうにいる、他人たちと交わることが政治の始まりであるとした。

 その見知らぬ他人と、それぞれの思いと経験を自由に話し合うとき、初めて人は世界の多様さと広さを知る。自分の経験や意見以外のものが存在することを知る。それが「政治」が生まれた理由であるとした。「政治」は「政治家」のものではなく、人々がより自由であるためのものだとしたのだ。

 確かに「政治家」はいる。選挙カーも候補者も存在している。けれども、わたしたちを広い世界に連れ出してくれる「政治」はどこにあるのか。

 わたしは傘に雨粒があたる音を聞きながら、そんなことをぼんやり考えていたのである。

 ■ともに歩いて

 渋谷で小池さんの演説を聞いた高橋さんの感想は「流暢だったね」、池袋では「もう終わり?」でした。風任せからどう脱却すればいいか。期待から失望へ急変した小池現象をテーマにしたのは、そんな思いからです。現場を歩くのは記者も同じだけれど、「記者さんと同じことはしない」と高橋さん。メディア自身も巻き込まれる風を相対化するには、外部の視点が必要なのだと感じさせられました。(編集委員塩倉裕
    −−「高橋源一郎の「歩きながら、考える」 選挙カー上から降り注ぐ「CM」」、『朝日新聞』2017年10月28日(土)付。

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(高橋源一郎の「歩きながら、考える」)選挙カー上から降り注ぐ「CM」:朝日新聞デジタル