覚え書:「高橋源一郎の『歩きながら、考える』 参院選の演説を通り過ぎる人々」、『朝日新聞』2016年07月13日(水)付。

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高橋源一郎の「歩きながら、考える」 参院選の演説を通り過ぎる人々
2016年7月13日

選挙戦最終日の夜、日の丸が振られる中、安倍晋三首相が演説した=7月9日、東京・秋葉原
写真・図版
 参院選で語られた言葉、語られなかった言葉。人々にどう響いたのでしょう。作家・高橋源一郎さんが街頭演説の会場をまわって感じ取ったことは……。寄稿をお届けします。

 わたしは、長い間、どんな選挙でも投票に行かなかった。

 なぜだったのだろう。そもそも政治家というものを信じていなかったのかもしれない。あるいは、政治にまつわる一切にうんざりしていたのかもしれない。しかし、当時のわたしに、その理由を訊(たず)ねても、はっきりした答えは返ってこないように思う。

 20代前半、わたしは自動車工場で働いていた。そこには、いまの連合の、有力な労働組合があった。わたしは臨時工だったが、仲の良い同世代の正社員がいた。選挙が近づくと、組合員たちは、黙って選挙運動に従事した。彼はほとんど選挙に興味がなく、投票にも行かなかった。実際のところ、組合員たちも本心では興味がないように見えた。そして、彼は、よくこんなことをいっていた。

 「誰が当選しようと知ったことかい。おれ、35年ローンで家を買ったんだ。一生奴隷が確定だ。あとは定年が来るのを待つだけ」

 彼は、支援候補の「熱心な支持者」のはずだったが、心は遠く離れているように見えた。

 選挙になると、わたしは、いつも「棄権する人たち」のことを考える。彼らは、多くの場合、どの政党よりも多い、最大多数派だ。彼らにも、あの頃のわたしと同じように、はっきりとした、棄権の理由はないのかもしれない。いや、「熱心な支持者」に見えて実は無関心な彼と、同じ気持ちを共有していたのかもしれない。

 いまや、すっかり「いい子」になったわたしは、必ず投票にいくし、その理由も説明できる。だが、行かなかった頃の自分の気持ちは忘れないようにしている。

 参院選が始まってから、各党や候補者たちが演説しているところへ出かけて、そのことばをていねいに聴いてみることにした。

 大きな政党が主催する大きな集会もあった。人がほとんど集まらない、小さな会もあった。街頭にじっと立って、候補者や支援者たちの表情を眺め、それから、彼らが話すことばに耳をかたむけた。だが、それだけでは足りないと思った。だから、演説者たちのことばから足早に遠ざかる人たちの表情も見ることにした。

 演説のことばには、二つの種類があるように思えた。一つは、支持者へ向かって話されることばだ。あるいは「身内」に向かって話されることばだ。

 「日本を世界の真ん中で輝く国にするために、どうかこの2人の候補者を当選させてください。この選挙で問われているのは、子どもたちの未来、日本の平和と安全を、無責任な共産党民進党に託すのか、日本人の命を守り抜く……自由民主党に託すのか……そして、この道をしっかり前に進んで日本の経済を成長させ、みんなを豊かにしていくのか……あの暗く低迷した時代に逆戻りするのか、それを決める選挙であります。みなさん、一緒に前進を勝ち取ろうではありませんか……」

 わたしは、秋葉原駅頭で、安倍首相の選挙戦最後の演説を聴いた。そこで、首相は、テレビや新聞で、繰り返している同じことばを、また繰り返していた。

 20代のわたしは、この演説を横目にしながら、黙って、通りすぎただろう。それは、彼の考えを支持しないからではなく、そこに、いつも聞かされている「政治のことば」しかないからだ。彼が、自分の支持者に向かってしかしゃべろうとしていないからだ。彼の演説では、最初から、通りすがりのわたしは除外されている。

     *

 もちろん、これは、首相である彼の演説だけではなかった。反対する立場の人たちの多くもまた、同じように、支持者に向かってだけ話しているように思えた。

 その一方で、支持者にだけではなく、語りかけようとすることばもあった。

 「私はテレビ越しに政治家を見ていて、全く別の世界にいる人のように見えて、自分の言葉は伝わらないし、政治家の言葉もよくわかんない。自分には関係ないと思っていました。政治家を信用できない。正直に言えば、今だってそんなに信用しきっているわけではないです。だけど、誰かを信じ切ってしまうこと自体、それは少し危ないように感じます。なぜなら、政治家は私たち国民の代弁者だからです。政治家は、政治は、私たちのような普通の人のためにあるものです。私たち市民がやるべきことは、政治家に声を届けることです。それが選挙です」

 これは、野党の候補のひとりを応援する、ひとりの学生のことばだった。わたしは、このことばを好ましく思う。ここには、明らかな支持者を超えて、声を届けたいという思いがあった。だが、20代のわたしが、この声を聴いたらどう感じただろう。自分に向けられているかもしれない声に、応答したいと思っただろうか。

 公示の日、新宿で野党候補の演説があった。その周りで、数人の若者たちが「投票」を勧めるプラカードを持ち、群衆の中を歩いていた。彼らとすれ違う人たちは、視線を投じることなく、何も見てはいないように振る舞っていた。

 別の日、選挙に音楽をからめた新しいやり方をみせてくれている集会に出かけてみた。その、大きなかたまりの、いちばん外の方で、小さなプラカードを持った女の子が、楽しそうに、踊っていた。その、踊る彼女のそばを、人びとは、目をそむけるように通りぬけていった。

 どちらも、わたしには、古い政治のことばややり方ではなく、新しいなにかを、支持者だけではなく、もっと遠くへ届けようとする試みに感じた。けれども、通りすぎる人たちにとって、彼らはどんなふうに見えたのだろうか。もしかしたら、「投票」を勧めるプラカードも、踊る女の子も、彼らの日常を脅かす異物に見えたのだろうか。あるいは、心はざわめくけれど、見なかったことにしたいものだったのかもしれない。

 嵐が来て、海の表面がどんなに荒れ狂おうと、少し潜れば、暗い静寂が広がっているように、社会の深層には、どんな政治的なことばも受けつけず、身の回りの小さな日常しか信じない人たちがいる。彼らは、政治家の演説する姿を見ても黙って通りすぎるだろう。すべての政治のことばの究極の願いは、彼らに届くことばを創り出すことなのだが。

 「いい子」になったわたしの中に、通りすぎる「彼ら」、黙って棄権する「彼ら」は、いまも生きている。そして、世界や社会について「立派な」発言をするわたしを静かに見つめているのである。

     ◇

 参院選から何を考えるか。社会の様々な現場を高橋さんが訪ねる寄稿シリーズ「歩きながら、考える」(随時掲載)の2回目は、街頭演説の取材をお願いし、計8カ所に足を運んでもらいました。

 参院選投票率は約55%。文中の学生の演説は雨の繁華街でした。聞き終わると65歳の高橋さんは「若者らしい、いいスピーチだね」とほほえみ、「あの先にまた考えるべきことがあるんだけど」と言いました。原稿は、勇気をふるって路上に出た若者への、一人の大人としての応答にも見えます。(編集委員塩倉裕
    −−「高橋源一郎の『歩きながら、考える』 参院選の演説を通り過ぎる人々」、『朝日新聞』2016年07月13日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12456909.html


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