自分自身へ眼をむけない限り、「善いことをやっている」つもりで官僚的に「極悪」業務をやってしまう
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全体主義的支配の本質、またおそらくすべての官僚制の性格は、人間を官吏に、行政装置の中の単なる歯車に変え、そのようにして非人間化することであるということは、政治学および社会学にとっては勿論重要な問題である。
−−ハンナ・アーレント(大久保和郎訳)『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』みすず書房、1969年、289頁。
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人間と社会の問題を考えるうえで、避けて通れないのが、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt,1906−1975)の傑作『イェルサレムのアイヒマン』になることは論を待たない。
アイヒマン(Adolf Otto Eichmann,1906−1962)とはホロコーストの中心人物の一人で、戦後南米へ逃亡していたところ、イスラエルの諜報機関の手によって逮捕されエルサレムで裁判を受けることになった。
アーレントは、その裁判から死刑執行へ至るまでを克明に描いた。しかし読者はその作品に面食らってしまうことになる。大量殺戮の中心者の一人だから、世界中は、アイヒマンを「タフな」極悪人として想像したが、実際のところ、アイヒマンは極悪人どころかとるにたらない小役人・小心者に過ぎないことが明らかになったからだ。
この対極的な事実は何を意味しているのか。
アーレントは、アイヒマンは言葉と他人の存在に対する「想像力の完全な欠如という防御機構で身を鎧っているから」大量殺戮を“事務作業”として遂行したと喝破した。つまり「考える能力――つまり誰か他人の立場に立って考える能力――の不足」が人間を人間として扱わないトリガーになってしまうということ。
日常生活では、メディアの報道の影響が大きいが、凶悪犯罪は、「極悪人」が行うことが定番である。しかし、じっくりとその経緯を腑分けしていくと、たしかに「極悪人」が遂行することもあるが、案外「普通」の人間が、上からの命令に盲従したり、システムや機械の力を過信したりするなかで“それとなくやってしまう”ことの方が多いのかも知れない。
だから、アーレントは、「<陳腐>であり、それのみか滑稽である」とも評している。人間生命に内在する怜悧さが、それとなく発動していく様は、どこにでもごろごろと転がっている。
さて……。
しかし、人間がそうした暴挙をそれとなく遂行し、ごろごろと転がっているものだからといって、
「おれは弱い人間だから“いたしかたない”」
「アーレントの指摘は峻厳すぎる」
「フツーの人間にそれを背負うには重すぎる」
……式に、そこに居直りを決め込むのは早計かも知れない。
その感覚が分からなくはないし、眉間にしわを寄せながら24時間それを抱え込んで生きていくことは実質的には不可能だろう。
後のミルグラム実験では、人間は、正当と考えられる権威に命じられたなら自らの道徳観に反しても罪のない他人を傷つけてしまう。そのとおり、人間は弱い存在だ。
しかし、弱いからといって、そこに「抗うことができない」と“降参”を決め込むことは早計だ。
何かに無自覚であること。
そして自身の現状を肯定するのではなく、居直ってしまうこと。
言葉を使い古して、想像力を失ってしまうこと。
この誘惑と絶えずたたかっていかない限り、僕自身がアイヒマンになってしまうことだけは否定できない。だからこそ、人間の弱さへ居直ってはならないし、それを決してエクスキューズにしてはならないのだろう。
蛇足的ながら、本書の出版を最も批判したのはユダヤ人たちだったという。要するに「ナチを擁護した」というのがそれである。追及においては、極悪人が暴挙をなすという「神話」がうまく発動するから、その構造が崩壊してしまうからなのだろう。
しかし、自分自身へ眼をむけない限り、「善いことをやっている」つもりで官僚的に「極悪」業務をやってしまうのが人間の常なのだと思う。
覚え書:「今週の本棚:養老孟司・評 『人類の宗教の歴史』=F・ルノワール著」、『毎日新聞』2012年3月4日(日)付。
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今週の本棚:養老孟司・評 『人類の宗教の歴史』=F・ルノワール著
(トランスビュー・3360円)
◇「新しい宗教家」が俯瞰する9大潮流の普遍
表題に「人類の宗教」と書かれていることの意味は、べつにサルやネコの宗教があるからというわけではない。特定集団の信仰史ではなく、人類に一般的な宗教というもの、その歴史という意味である。すなわち世界の宗教全体をむしろ一つのものとして通観した歴史であり、だから副題には「9大潮流の誕生・本質・将来」とある。
本書は二部構成になっている。第1部は第5章までで、宗教の起源を考える。第2部は第14章までで、「救いへの主要な道」と題して、よく知られた代表的な宗教をそれぞれの章で扱う。すなわち各宗教が「9大潮流」として同じ重さでまとめられている。最後に一章分の短い結論があり、宗教の現代と未来が論じられる。「科学知識の瞠目(どうもく)するような進歩にもかかわらず、人生は依然として深い謎である」という結語で終わる。
著者は一九六二年生まれ、フランスの新しい宗教家とでもいうべきか。『ル・モンド』の宗教専門誌『宗教の世界』の編集長。多くの著書があり、二つの邦訳がすでにある。なかなか興味深い人物で、こうした本を書くことでもわかるように、東洋思想とくに仏教にも造詣が深い。自身がカトリックであることについては、若いときにたまたま修道院にこもって執筆をしていたときの宗教体験をインタビューで語っている。こうした人でないと宗教に強い関心を持てないであろう。それと同時に、さまざまな宗教を俯瞰(ふかん)できる力業を持つのはたいへんなことだと思う。ついわれわれは、宗教とは一つの道に深く入っていくことだと思ってしまうからである。著者の態度には、よい意味での西洋文明の普遍性への志向を読み取ることができる。
第1部の宗教の起源は、文字で書かれた歴史以前のことになる。だから第1章は考古学的な考察である。具体的には埋葬儀礼、洞窟絵画が典型である。第2章は「神が女性であった時代」。わが国でも縄文のヴィーナスならなじみが深いであろう。これが「雄牛との結合」となるのは、生殖の神秘を意味している。さらにそこから祖先祭祀(さいし)となる。第3章が「都市の神々」、第4章が「世界の神々」続いて第5章が「人類の枢軸転換期」である。章の題名を記したのは、著者の論述の筋道がよく示されているからである。最後の章の題名はヤスパースの議論から取られており、紀元前七世紀から同五世紀の間を指している。中国、インド、西洋で、この間に人類史上で似たようなことが同時に起こる。宗教史でいうなら個人の救済という概念の発生である。そこから今日われわれが「救済の宗教」と呼ぶものがはじめて生まれる。以下の章はその各論となる。
第6章は「中国の叡智(えいち)」で、道教と儒教を扱う。続いてヒンドゥー教、仏教、ギリシャの叡智、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、生き続けるアニミズムという章が続く。つまりこの部分はそれぞれの宗教の歴史についての各論である。たがいの有機的関連が薄いのは、事柄の性質上、やむをえないのかもしれない。ただしそれぞれの項目に関心のある人にとっては、興味のある記述が見られるはずである。
人は自分自身を自然と身体から切り離し、すべてに回答を与える、単なる脳となってしまったことに気づいていない。しかもそれが全世界に幸福をもたらすと信じ込んでいる。それはほとんど現代のマンガだ。著者はそう語っている。世界には似たようなことを考える人がいるものだと、私は思う。私自身は宗教家ではない。しかし宗教に関心を持つのは、こういう人がいるからである。(今枝由郎訳)
−−「今週の本棚:養老孟司・評 『人類の宗教の歴史』=F・ルノワール著」、『毎日新聞』2012年3月4日(日)付。
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http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120304ddm015070031000c.html