宗派は或る団体の専有物ではない。之に値する何人にも恵まるべきものである。丁度神様はすべての人類の神様である様に。



        • -

 元来宗教は動(やや)もすると「一種の党派」になり、「いくら自分では公平なつもりでも識らず/\に自分の宗旨に肩をもち」たがるものである(大庭氏訳一六七頁)。併し少しく聡明を開いて考へて見れば、斉しく是れ一人の神の光の反映ではないか。修道院の長老が聖廟騎士に皇帝暗殺の密計を授けんとした時、騎士は「自然がたとひ一筋でもわしの顔をあなた(皇帝ザラディンを指す)の弟様に肖せて作つて呉れたとすれば、魂もそれに対応(かな)ふやうなものが少しだつてないでせうか」と答へて、既に人類的性惰の民族的宗派的超越を暗示して居る。然るに基督教徒は自分が基督教徒だと誇り、人間だといふことを誇らうとしない。而して「基督といふ名前です−−基督教徒が諸方へ拡めたがつてゐるものは。あらゆる傑(すぐ)れた人間の名前をその名前で辱しめ、そして併呑しようといふので」あつて「創造主が性[生ママ]ある総べてのものにお賦与(さず)けなすつた愛をば」忘れてゐる(大庭氏訳六二−六三頁)。是れ豈指輪の真贋を争ふ三人の兄弟の姿その儘ではないか。真贋の争をやめて謙(へりくだ)りて神の命に聴け。神の賦与せる愛に眼醒めよ。そこに何んの宗派の別があるか。第四幕第七駒に元と馬丁であつた修道僧とナータンとがレヒヤヤーを送り届けられた際の昔話がある。ナータンがレヒヤーを育てやうと決心するに至つた物語に感動して修道僧は「ナータンさん! ナータンさん! あなたこそ基督教徒です! 神様にかけて、あなたこそ基督教徒です! こんな立派な基督教徒はかつてなかつた!」といへば、ナータンはまた「お互いに恵まれてゐる! あなたから見てわしを基督教徒とする所以(もの)が、わしの眼にもあなたを猶太教徒に見せますから」といつて居る(大庭氏訳二〇四頁参照)。是に至つて宗派は或る団体の専有物ではない。之に値する何人にも恵まるべきものである。丁度神様はすべての人類の神様である様に。

 五
 愛と聡明とに依て理想世界を建設せんとするが蓋しレッシングの大本願であらう。不幸にして吾人は宗派に捉へられ、民族に捉へられ、本来しかあるべき人格を作り上げて居ない。「本来の人格といふものは此世界で余儀なくされてゐる人格と何時(いつ)も一致してゐる」とは云へぬ(大庭氏訳二二二頁参照)。余儀なくされて居る人格から本来の人格に向上する様に吾々を覚醒することがレッシングの『賢者ナータン』を書いた目的の一つであり、而して是れ実にまた世界平和の理想に燃えて居るすべての人の不断の努力であつた。この精神は現代の日本に必要がないだらうか。
    −−吉野作造「賢者ナータン」、『文化生活』一九二一年九月。

        • -


吉野作造(1878−1933)の趣味の一つが観劇。
少年時代の村芝居、旅芝居への熱中から始まり、中学・高等学校で歌舞伎に親しみ、終生感激の楽しみの一つとして過ごしたようですが、ヨーロッパ留学中も大いに楽しんだそうです。

そのなかでひときわ大きな影響を与えたのが、レッシング(Gotthold Ephraim Lessing,1729−1781)の『賢者ナータン』(Nathan der Weise)。

話の筋は譲りますが、人間の価値は民族や宗教などそうしたカテゴリーによって代表されるものが総てではない、そのひと自身のふるまいによる「かも」との指摘ですが、吉野作造はこの『賢者ナータン』に大いに感動したそうです。

血や肉による消せざる特殊性というものから総て否定することは不可能です。

しかしながらそれでありながら、同じように還元不可能な特殊性を保持した他者とどのように向かいあっていくのか……吉野の議論には、つねにそうした問題意識が孕まれているように思われて他なりません。

だからこそ、つねに吉野が念頭においていたのは、「寛容」の精神をどのように「実践していくのか」という問題。

おもえば、中国・朝鮮半島からの留学生を死ぬまで支援するわけですし、早い段階から植民地主義も批判している。

主権の所在を問わないから「限界がある」と民本主義は批判されますが、批判だけで何もできないことは問題だからと、政治へ具体的に注文するだけでなく、広く社会事業を展開する。

そして、吉野自身は「リベラル」としての……これも少し問題はあるのですが……クリスチャン・デモクラットですが、相手が相反する天皇親政を説く人間であろうが右翼の巨頭であろうが(上杉慎吉笹川良一)、そして左翼だろうが無政府主義者であろうが(大杉栄との交流は有名)、関係なく交わった。

理念をどのように生かしていくのか。

彼の足跡はそのヒントに満ちあふれている。





102

覚え書:「今週の本棚:五百旗頭真・評 『とめられなかった戦争 さかのぼり日本史(2)昭和』=加藤陽子・著」、『毎日新聞』2012年3月4日(日)付。



        • -

今週の本棚:五百旗頭真・評 『とめられなかった戦争 さかのぼり日本史(2)昭和』=加藤陽子・著


 ◇五百旗頭真・評
 (NHK出版・998円)

 ◇あの戦争の転機を史眼と人間性でとらえる
 『さかのぼり日本史』シリーズの「戦後 経済大国の“漂流”」を扱う第一部を私は担当した。その誼で、戦争の時代を扱った続編である本書をひょいと手にし、たちまち引き込まれた。もともとNHKテレビ番組用に語られ、それを本にしたものである。軽やかな口調だが、その背後に著者の並々ならぬ学術的考察の蓄積がある。裾野の広い確かな研究にもとづきながら、一般の読者に分りやすく論ずる作品である。
 太平洋を舞台に3年9カ月にわたり死闘を繰り返した日米戦争の要所を語りつつ、著者もサイパン陥落を、日本の敗戦が宿命づけられた決定的瞬間であるとしている。まず真珠湾攻撃によって日本側は空軍の優位を実演した。それでいて、太平洋島嶼の基地を艦隊決戦のための補給地とする古い思想を脱しえず、島嶼を航空拠点として用いる思想が不徹底であった。日本軍はサイパン島に4万4千の守備隊を集めたが、米軍の制空権・制海権の下、猛烈な空爆と艦砲射撃によって、7万の米軍が上陸を開始する前に、日本軍の水際防禦陣地はほぼ壊滅した。マリアナ沖海戦で日本は機動部隊を失い、サイパン失陥により日本本土はB29の空爆圏に入った。敗戦必至となったこの時点から1年以上戦い続ける中で、310万にのぼった日本人全犠牲者の大半が失われ、戦後の日本に深い傷を残したとしている。
 それにしても、国民総生産で12倍、産油量で777倍もある米国に対して、日本はなぜ戦争に踏み切ったのか。当時の軍人も国民も日米の国力差を知っていた。弱いアジア諸国をいじめるのと異り、米国との国力の差を精神力で立ち向い克服するのを快とする国民感情日露戦争の勝利体験といった心理的要素で説明する他はないようである。日中戦争開始後、陸海軍が「臨時軍事費」の特別会計により戦争準備の恩典を得ていたことが開戦決断を支える要因であったとの指摘は新鮮である。第一次世界大戦直後から、日本が帝国国防方針によって、米国がオレンジ・プラン策定によって、共に将来の戦争を予期していた一面があること、日本の南部仏印進駐に対し米国政府が石油全面禁輸などの激烈な制裁で応じたのは対ソ配慮ゆえであったこと、結局のところ日中戦争が日米戦争への導火線であったことなどが論じられている。
 日中戦争は長期にわたる大規模な戦争であったが、両国とも米国が中立法を発動して支援や貿易を止めることを嫌って、戦争ではない「事変」とした。長期化したのは「短期決戦で押したい日本と、アメリカとソ連の介入までどうにか戦線を維持し……たい中国との、対照的な戦略ゆえ」としている。それにしても、その場その場の事態への強い応戦に夢中になる中で、かくも全体的状況への洞察を見失うことができるものである。それは昔も今も変らないとの想いを禁じ得ない。
 事の始まりは満州事変であった。昭和初期の経済的絶望の中で、松岡洋右の「満蒙問題は我が国民の生命線」という言葉が人々の心を捉えた。「満蒙」も「生命線」も、何と不正確な言葉であろうか。もともと中間のあいまいな了解を、陸軍は明確な約束なのに中国が守らないと日本国内で宣伝した。東京帝大生の88%が、武力行使をしても満蒙の権益を守るべきだと答えた。満州事変はメディアと世論の圧倒的支持を享受し、満蒙の一部であると国内でイメージされた熱河へ関東軍は侵攻した。正確な概念を魅力的なイメージの下で消し去る風潮の恐ろしさを改めて教えられる。歴史への精通とヒューマンな視点の結合を特徴とする本書である。
    −−「今週の本棚:五百旗頭真・評 『とめられなかった戦争 さかのぼり日本史(2)昭和』=加藤陽子・著」、『毎日新聞』2012年3月4日(日)付。

        • -



http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120304ddm015070034000c.html



202


203