顔は殺意に立ち向かう





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 存在者との関係は顔への請願であり、すでにして発語であるということ。この関係は地平との関係であるよりもむしろ深さとの、地平にうがたれた穴との関係であるということ。私の隣人は存在者の最たるものであるということ。光り輝く地平線上に存在する、それ自体では無意味なシルエットとして、地平線上に現前することでのみ意味を獲得するものとして、存在者をあくまで捉えつづけようとするのであれば、いま述べたことはいずれもかなり驚くべきことと映るかもしれない。しかるに、顔はこのようなシルエットとは別の仕方で意味する。顔においては、われわれの権能に対する存在者の無限の抵抗が殺意に抗して確証される。顔は殺意に立ち向かう。というのも、顔は完全に剥き出しのものとして自力で意味を有するからであり、このような顔の裸は何らかの形式を備えた形象ではないのだ、顔は開けである、とすら言えない。そう述べるだけで、顔とその周囲を充たすものとが関係づけられてしまうからだ。
 事物は顔をもちうるのだろうか。芸術とは、事物に顔を付与する鋭意ではなかろうか。家の正面、それはわれわれを見つめているのではなかろうか。これまでの考察では、これらの問いに十全に答えることはできない。ただ、芸術においては、リズムの非人称的な動きが魅惑的で魔術的なものと化して、社会性、顔、発語にとってかわるのではないだろうか。
 地平を起点として把持されるような了解と意味に、われわれは顔の「意味すること」(signifiance)を対置する。顔の観念を導入した際、われわれはごく簡略な説明をしたにすぎない。顔はほとんど存在するとさえ思われていない諸関係の領野を開くものなのだが、この説明だけで、顔が了解のなかで果たす役割や顔の諸条件のすべてを少しでもご理解いただけであろうか。われわれが顔の観念についてかいま見たことは、ただし、カントの実践哲学によって示唆されているように思われる。われわれはカントの実践哲学に対して格別の親近感を覚えているのである。
 どの点において、顔のヴィジョンはもはやヴィジョンではなく、聴取と発語であるのか。顔との遭遇、言い換えるなら、道徳認識は、いかにして、意識そのものの開示の条件として記述されうるのか。意識はいかにして殺人の不可能性として確証されるのか。顔の現れ、殺人への誘いとその不可能性の条件はどのようなものなのか。いかにして私は自分自身に対して顔として現れるのか。最後に、他者との関係ないし集団はどの程度、了解には還元不能な無限との関係であるのか。こうしたテーマこそ、存在論の優位に対する初めての異議提起から生まれたものである。いずれにせよ、哲学的探究は自己や実存に関する省察に甘んじてはならない。こうした省察がわれわれに証すのは、個人的実存の物語、孤独な魂の物語でしかない。たとえ自分から逃げるかに見えても、孤独な魂はたえず自分自身に回帰してしまう。権力ならざる関係に対してのみ、人間的なものは姿を現すのである。
    −−レヴィナス合田正人訳)「存在論は根源的か」、合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫、1999年。

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こころないツィートにこころが痛んでしまいます。

「心ない発言。人は志で生きる動物です。 RT@masason 悲しい。 RT @lowmissile おいおい乗せられんなよ在日による日本のインフラ乗っ取りじゃん RT @masason: 当然他社を排除すべきじゃない。 RT 地下鉄アンテナ工事(費用当方負担)許可戴きたく」

http://twitter.com/#!/inosenaoki/status/26295169682771969


本朝の極端なひとってどうしてこんなに頭がわるいのかしらん?

右でも左でも白で黒でも何でもいいのだけど、それを根拠とする理性的な言説がでてこないところがorzなのです。

好きか嫌いかの二者択一。なけてきますワ。

人間ですから、好きか嫌いかはありますよ。

それはわかります。

しかし、それだけですべてを住ませてしまうと、とんでもないことになってしまいます。

だからこそ、理性的に話し合う必要があるんです。

しかも顔と顔を、そして眼差しと眼差しを向けないながら。

媒体(メディア)は何でもいいんです。

しかし、そこに人間が存在するとして、話し合う必要があるんです。

その難事をすっとばして、はっしょって、その人間の肩書きを初めとする属性のみで判断してしまうことがどれだけ愚かなことなのか。

人類の歴史を振り返ってみればその証拠には枚挙の暇がありません。

何を信じ、何を主張しようともいいんです。

しかし、信じ、主張するそのひとが人間であることを承知するならば、相手も人間であることを踏まえなければならない。

そのへんがねぇ〜。

極端主義っていうものは、結局、何か自分の外にある構築物によってしか自己表象できないところがorzなんです。

別に自分自身に胸をはれってことを強要するつもりではないけれども、自分自身ではなく、自分が所属する団体や組織によってしか自己肯定できないこと、そしてそれを強要する態度に泣けてくるんです。

結局、人間そのものをみることができないからそうなるのかしらん。

何しろ生身の人間っていうのは光り輝いているからね。

まぶしき過ぎて真正面からみることができないから、その人間ではなくその人間を形容する事象によってしか議論ができない……なんたるちあです。

しかしその光り輝く人間を人間として真正面から見ていかない限り、どのような問題も解決不可能であることだけは間違いありません。

ほんと。

ふぅ。



⇒ 画像付版 顔は殺意に立ち向かう: Essais d'herméneutique