「思考の歴史的制度から脱け出す」こと
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合理的に考える人がすべて合理主義者とは限らない。合理主義者とは、合理主義という思考のパラダイム、いいかえれば思考の歴史的制度から脱け出すことのできない人のことであるといってよい。その意味でいえば、合理主義それ自体が一種の非合理主義だということになる。合理主義という思想の幻想から解放されていない人を、ぼくらは合理主義者と呼んでいるにすぎない。つまり思考の合理性は、しばしば、思考の合理的体系を突破し、解体せしめるように機能する。
−−山崎行太郎『小林秀雄とベルクソン』彩流社、1997年。
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金曜日まで休みがないので少しだけ。
2−3日、更新をしていなくてすいましぇん。
先週も休み無く仕事をして、週末は大阪で倫理学を講じており、そのままもどって短大の試験、それから市井の仕事という怒濤状況で、久しぶりに「考える暇」がないという状況で許して丁髷です。
さて、これにて今年度の授業は基本的に終わりました。
4月からの新年度が次のスタートとなります。
倫理学にせよ、哲学にせよ、そうした学問を講じる中で、大切だなと思うのは、「思考の歴史的制度から脱け出す」ことなのではないのかなと縷々実感するところです。
人間は生きていく中、様々な知識を学ぶわけですが、まあ、それが都合がいい体系へと変貌させられてしまうのがよくあるパターンかと思います。
それがそのひとが生きていく上でのひとつのパラダイムの骨格を形成するわけですが、そのパラダイムというものが「合理主義という思想の幻想から解放されていない人を、ぼくらは合理主義者」と呼ぶような状況を招いてしまうというものです。
だからこそ、それをずらしていくのが、高等教育の目的なのではないのか……というところなわけです。
というわけ、本年度、お世話になりました皆様、ありがとうございました。
久々の更新ですが、今日は、早々に沈没いたします。
⇒ 画像付版 「思考の歴史的制度から脱け出す」こと: Essais d'herméneutique