十五、六歳の頃、ブルックリンの通りを、わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた




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十五、六歳の頃、ブルックリンの通りを、わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた。その一部を読んで、余りよく理解できなかったけれども、わたしは感激し、なんとくなくすばらしさを感じていた。年上の人がこの本を抱えているわたしに気がつき感心して、肩をぽんとたたいて、何か言ってくれないかとわたしはどんなに望んでいたことだろう。でも何を言ってもらいたかったのかたしかなところは分からなかった……
 時折わたしが思うことは、不安がないわけではないが、十五、六歳の若者は大人になったら何になりたいと考えているのだろうかということだ。この本が若者の気に入ってくれることを望みたい。
 今ふとわたしの心に浮かんだのは、若い頃に探し求めていた認識と愛が、大人になったらなりたいと思っていたのと違った結果になったのではないかということである。もしわれわれが成人に達するのはわれわれの親の親になるのことによってであるなら、そしてわれわれが成熟するのは両親の愛に代わる適当なものごとを見出すことによるのであるならば、われわれ自身がわれわれの理想的な親になることによって、最終的に円環は閉じられ、完全さに到達することになるだろう。
    −−ロバート・ノージック(井上章子訳)『生のなかの螺旋 自己と人生のダイアローグ』青土社、1993年、476頁。

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『正義論』で有名なハーバードの教員・ジョン・ロールズ(John Rawls,1921−2002)の同僚であり、真っ向からその立場を異にしたのがリバタリアンノージック(Robert Nozick,1938−2002)です。

まあリバタリアニズムと一口でいっても右から左まで、その特徴や強調点によって様々な違いがあるわけですが、ノージックのそれは、「メタ・ユートピア論」にカテゴライズされるものです。

ノージックの最大の問題とは何でしょうか。

それは人間の自由とは何かということにつきるでしょう。
だから、人間が自由を手にするにあたって、その仮象の共同体としての「国家」は何をなすべきかが問題とされます。

だから、逆に言えば、国家が自由であってもしょうがないという寸法です。

国家の正当性は無限大でもないし、かならず限界があります。ここが本朝ではなかなか理解できないところでしょう。

さて最小国家を探求したノージックの論点は3つあります。ひとつは「自己所有は何か」という問題、そして「権利は衝突するか」という議論、最後に「危害の強要と、安全・安心の強要は同じではないのか」という問い……。

そこから単一支配主義からエスケープしていく方途が論じられるわけですが、その辺を今日は考えようとしたわけではなく(苦笑、彼の自伝とも言うべき、The Examined Life: Philosophical Meditations(Simon and Schuster, 1989)の末尾から、少し日常生活の一コマについて考えてみようかと思います。

その部分をちょうど冒頭に引用しているわけですけれども、少年時代のノージック先生は、「わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた。その一部を読んで、余りよく理解できなかったけれども、わたしは感激し、なんとくなくすばらしさを感じていた」そうですねぇ。

学問をやる上で大切なのはこの感覚なんですワ。

昨今、どちらかといえば、それを扱うデバイス類に集中・注目してコンテンツが置いていかれるっていうことに危惧を抱く昭和人ですので(苦笑

確かにアンドロイド端末やiPadやら、そうした「何かを扱う」デバイスのことに関しては話題になることが多いのですが、それを「外側に見えるようにして歩」くだけでなく、できれば、「ペーパー版プラトンの『共和国』」をそのように小脇に抱えてですね……「その一部を読んで、余りよく理解できなかった」としてもですね……歩いて、「なんとくなくすばらしさを感じて」欲しいものです。

自分が学生時代……90年代初頭、ワープロ全盛期で、ぼちぼちモバイルPCが出始めた時代ですが、まだまだそうした雰囲気はキャンパス内でも結構ありましたものですから……、苦言を呈するわけではありませんけど、そうしたエートスが失われてしまうのはチト寂しいなアと思う次第です。

それが分かろうが分かるまいが、いい本をもって歩くっていうのは大事ですよ。





⇒ 画像付版 十五、六歳の頃、ブルックリンの通りを、わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた: Essais d'herméneutique