非本来的とか、本来的でないとか言っても、それは決しては「本来は存在しない」という意味ではない







        • -

第三八節 頽落と被投性
 世間話、好奇心、曖昧さは、現存在が日常的におのれの「現」を−−世界=内=存在の開示態を−−存在しているありさまの性格である。これらの性格は現存在にそなわる実存論的規定性であるから、そこに客体的に存在する性質ではなく、現存在の存在の構成にあずかっている。それらにおいて、そしてそれらの存在連関において、日常性の存在の根本的様相が現われてくる、これを、われわれは現存在の頽落(Verfallen)となづける。
 この名称は、なんら否定的な評価をするものではなくて、現存在がさしあたってたいていは、配慮された「世界」のもとにたずさわっているということにほかならない。このように……たずさわってそれに融けこんでいることは、たいていは、世間の公開性のなかでわれを忘れているという性格をもっている。現存在は本来的な自己存在可能性としてのおのれ自身から、さしあたってはいつもすでに脱落していて、「世界」へ頽落している。「世界」へ頽落しているということは、世間話や好奇心や曖昧さによってみちびかれているかぎりでの相互存在のなかへ融けこんでいるということである。われわれがまえに現存在の非本来性となづけておいたものは、いま頽落の解釈をつうじていっそう鮮明に規定されることになる。非本来的とか、本来的でないとか言っても、それは決しては「本来は存在しない」という意味ではない。もしそうだとすれば、現存在はこの存在様態をとるやいなや、そもそもその存在を喪失するということになるであろう。
    −−マルティン・ハイデッガー(細谷貞雄訳)『存在と時間 上』ちくま学芸文庫、1994年、372−373頁。

        • -


すいません。更新を怠っておりまして……。
何しろ、ホント休みがないものでして、そんでもって休みの日はたまった学問の仕事と研究を片づける「うぃる」という感じで、ほんと、なんとかしてくれやいなアと思うわけですが、誰かに頼んでもそれが遂行されるわけでもなく、、、そのどうしようもない日常を逸脱することなくレコンキスタしていくほか……あるまい、などと不敵に笑ってしまうワタクシです。

寝る前にと思ってハイデッガーMartin Heidegger,1889−1976)の主著『存在と時間』(Sein und Zeit,1927)の中盤のひとつのクライマックス、すなわち、人間という存在(つまりこれが現存在ですな)が、日常生活のなかで日々の労務に埋没している状態を「頽落」と指摘したところがありましたので、ひとつ抜き書きしておきます。

まあ、ハイデッガー大先生は、人間がぐだぐだとした毎日の生活に埋没してしまう現実を峻厳に指摘しておりますが、単なる指摘でも終わらせないように配慮しておりますね。

ぐだぐだなその状態っていうのは、確かに「こんなん、わたしの思っている・考えている状況と違うやないけ」ということは否定しませんよ。

ですけどそう呟いたところで、「じゃア、どこかに本来的とか、本当の自分なんかがあるのかいな?」ってなってしまうのも事実です。

ですから「非本来的とか、本来的でないとか言っても、それは決しては「本来は存在しない」という意味ではない。もしそうだとすれば、現存在はこの存在様態をとるやいなや、そもそもその存在を喪失するということになるであろう」という寸法。

金曜日は待ちに待った?!二週間ぶりの休日です(働きすぎだと思いますヨ、ホント)。

まあ、例の如く、山積みの研究をかたづけるほかありませんが、日常生活のなかに頽落しているようにみせかけつつも、そこで現存在の使命を、世界=内において、チト念入りに遂行していこうと思う深夜です。

つーか、はよ寝ぇやってところですね。




⇒ 画像付版 非本来的とか、本来的でないとか言っても、それは決しては「本来は存在しない」という意味ではない: Essais d'herméneutique