「はぁ〜、難しそうなのやってますねぇ」じゃねえだろうwww

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 学校の成績だけで人間に優劣をつけ、何のために生きるのかを誰も自信をもって教えない社会。「事件」を起こした少年だけでなく、日本中で若い少年たちが狂犬のような眼で街を徘徊し、人生で一番美しい年代の少女がお金のために体を売る時代。何のために生きるのかを問わない生き方は、動物と変わりません。いや、知恵がついているぶん、人間は最悪の動物にさえなります。
 それは、突きつめれば何のために生きるのかということを教えない家庭や学校が悪いのではなく、何のために生きるのかということを、真剣に探そうとしない大人たちの「生きる姿勢」に問題があるのではないかと考えるのです。
    −−山下京子『彩花へ 「生きる力」をありがとう』河出文庫、2002年。

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5日は、勤務校の一般入試のため、朝から試験監督員として大学へ出講。
少子高齢化の進むなかで、定員われを起こさず、健闘していることにはおどろくばかりですが、そこに安住してしまうとorzであることを常に自覚しながら学問や教育に向かい合わなければならないことをひしひしと痛感。

まず、受験してくださった皆様、ほんとうにありがとうございました。

真剣な受験生の眼差しに襟をたださせて頂いた次第です。

日本の大学全体が教養教育から就職教育へシフトを切っていく中で、ホントにこのままで大丈夫なのだろうかといつも思うわけですし、それは教養担当である弊職の「ひかれものの小唄」なのかもしれませんが、そうした風潮には抗っていかないとマズイとひしひしと感じております。

「学校の学問なんて社会に出て役に立たない」という言い方がありますが、僕なんかはそれこそがナンセンスだと思うし、「社会に出て役に立つ科目を大学でもw」という言い方もナンセンスだと思うんですね。

両者とも学問を特定の目的に利益誘導するかたちにしか見ていないわけであって、そこには、人間を人間へと成長させていく「人間への道」としての学問の根本目的を見ていないわけですよね。

両者は対極の意見かもしれませんが、要するに心根は同じと言うことです。

「学校の学問なんて社会に出て役に立たない」とバッサリいってしまうのであれば、学校へいく必要もないし、「社会に出て役に立つ科目を」っていっても、それが社会に出て役に立つ保証もないわけですよ。

前者に関してはもちろんそういう科目もありますが(苦笑、「人間とは何か」という思弁は決して無益ではないし、どこかで真剣に考えなきゃいけない探究です。

そして後者に関して言えば、ツィートで少し言及しましたが、マア、古い僕らの時代の事例で表象するなら「大学で ロータスやって 就職後 エクセル・パワポ 時代は変わった」(和歌風にwww)つうものですからね

まあ、哲学だの倫理学だの神学だのやっておりますと、他専門の同僚からも

「はぁ〜、難しそうなのやってますねぇ」

……で、それ以上、話が進まないorzという現実に涙という次第ですが(苦笑

まあ、「はぁ〜、難しそうなの」でクローズさせることなく、難しいものであったとしてもどこかでぶち当たっていく必要はあるとは思うのですがね・・・。

さて試験終了後、3月に卒業予定の哲学履修者数名と、前期に履修してくれていた学生さんたちとしばしば懇談。

有意義なひとときを送ることができました。

ご参加戴きました皆様、本当にありがとうございました。

くどいですが、哲学には答えがないのではありません。自分で紡ぎ出す努力が大切なんです。

何か困ったことがありましたら、何も助けることができないとは思いますが(苦笑、マア、また声でもかけてもらえればと思います。

学生さんは教師をなんぼつかってもいいものですからネ

ご遠慮なさらずにwww









⇒ 画像付版 「はぁ~、難しそうなのやってますねぇ」じゃねえだろうwww: Essais d'herméneutique