【研究ノート】アリストテレス eudaemonia(エウダイモニア)の組み立て方
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しかしより根本的な問題は、アリストテレス自身、それ自体のためになされる行為は数多くあり、また、行為外の目的も多々ある、とすでに認めているという事実である。『ニコマコス倫理学』の最初の数行に、健康、勝利、富がそのような行為外の目的の例として挙げられている。行為自体に目的がある例としては、音楽鑑賞を挙げることができる。我々が音楽を聴く時、音楽の試験準備のために聴く場合は別にして、行為外の目的があるわけではない。この批判に対してアリストテレスがいかに答えるかに注意しよう。そうすれば、賢人は人生に一つの最終目的を持つというアリストテレスの想定の根本理由が理解されるであろう。先に、それ自体のためになされる行為と、それ以外の目的のためになされる行為の二種類があると述べたが、さらにここで、それ自体を目的とすると同時に、より包括的な目的の構成要素となるような行為があることを想定する必要がある。
今、健康増進というような行為外の目的のためではなく、ダンス自体を楽しむために踊っている人の場合を考えてみよう。この場合、ダンスのステップの一つ一つはそれ自体を目的として行われているのであろうか。もしステップの一つ一つがダンスのための手段として行われているのだとすると、ダンス全体がそれ自体のためになされていないということになってしまう。しかし、踊っている人はダンスを楽しむために踊っていると仮定したのであるか、ダンスの構成要素であるステップもそれ自体のために行われていると考える方が妥当であろう。踊る人の動作の一つ一つが、それ自体のためになされるというのも、ダンスのためになされるというのも、同じように真実なのである。すなわち、動作の一つ一つはそれ自体が目的であり、同時に、より包括的なダンス全体という目的の構成要素になっているといえる。
このように考えれば、先に挙げた問題点は消滅し、アリストテレスの示唆する考えはよりよく理解される。つまり、アリストテレスは、もっとも包括的な、すべてを含有するような一つの最終目的があり、我々がそれ自体のために行う行為のすべては、この包括的最終目的の構成要素になっているのではないか、と提案しているのである。もしもこのアリストテレスの考えが正しければ、この包括的最終目的こそ最高善のはずであり(109a23)、その追求は結い意義に違いない。
アリストテレスは、少なくとも、このような至上目的を何とよぶかということに関しては、すべての人が一致していると言う(1095a18)。すなわちeudaemonia(エウダイモニア)とよぶのである。このギリシャ語は、そのまま英語でも使われることがあるが、通常happiness(幸福)と訳される。この訳語が誤解を招きやすいということは誰もが知っているが、他によりよい訳語がないために、大部分の人が使っている。しかし、エウダイモニアをそのまま使い、その意味を説明する方が無難だと思う。ありがたいことに、アリストテレス自身、エウダイモニアは「よく生きていること、よくやっていること」という意味であるという点に関しては万人が一致している、と言っている(1095a19-20)。すなわち「ある人がeudaemon(エウダイモン)である」ということは、その人が「生き甲斐のある人生を生きている」ということとまったく同じことなのである。それは、「ある人がhappy(幸せ)である」という場合と根本的に違い、その時点でその人が世界の頂点に立っているように素晴らしい氣分であるとか、その他の望ましい感情をもっているということではない。ある人をエウダイモンとよぶ時、我々はその人の人生全体を評価しているのである。したがって、慎重な人はソロンの忠告に従って、人が死を迎えるまでは誰もエウダイモンとはよばない。アリストテレスの言うには(1100a10-15)、このソロンの忠告は、「人は生きている間はよく生きているとはいえない。墓のなかに入って初めてよく生きられるのだ」という滑稽な考えを表しているのではなく、「人生全体を見なければ、そのが生きるに値する人生であるかどうかを完全には判断できない」という慎重な考えを示しているのである。まだその人が生きているうちにエウダイモンとよぶのは、あたかも読みかけの本をよい本だと言うようなものである。もちろん、これは我々のしばしばすることだが、慎重な態度とはいえない。人が若者をしてエウダイモンとよぶ場合は、順調な始まりにもとづく将来の予測を意味しているのであって、最終判断を意味しない、とアリストテレスは言う(1100a1-4)。このように、エウダイモニアという言葉の意味がhappiness(幸福)と異なることは明らかである。
−−J.O.アームソン(雨宮健訳)『アリストテレス倫理学入門』岩波書店、1998年、17−20頁。
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アリストテレス(Aristotle,384 BC−322 BC)の『ニコマコス倫理学』(Ethica Nicomachea)の根本的なテーマとは、「最高善としての幸福とは何か」になりますが、それを導くために目的と手段の関係をきちんと把握しておく必要があります。
アリストテレスは、冒頭で目的と手段(行為)の関係を詳細に論じておりますが、初学者は結構このへんで挫折してしまうパターンがよくあります。
その詳論をふまえて初めて、アリストテレスの豊穣なる哲学魂と喧嘩することができるわけですから、そのままサヨウナラをしてしまうと、それはそれで大変モッタイナイことになりますので、秀逸な解説をひとつ紹介しておきます。
さて……。
アリストテレスではありませんが、何につけても美味しいという桃屋の「辛そうで辛くない少し辛いラー油」をゲットしたのですが(まだ家に少しストックはあるのですが)、「つけるものがない」orz
まさにこれが本末転倒……お。
⇒ 画像付版 【研究ノート】アリストテレス eudaemonia(エウダイモニア)の組み立て方: Essais d'herméneutique