「人間のために」って言ってしまえば、要するに誰もそれを否定することができないんですよ。





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 ポワリエ 他人はみなそれぞれかけがえのないものですけれども、私たちは全員をひとしく愛することができません……
レヴィナス まさしく、それゆえに、私たちは、私が倫理的秩序あるいは聖性の秩序あるいは慈悲の秩序あるいは愛の秩序あるいは慈愛の秩序と呼ぶものから出てゆかねばならないのです。いま言ったような秩序のうちにあるとき、他の人間は、彼がおおぜいの人間たちの間で占めている位置とはいったん切れて、私とかかわっています。私たちが個人として人類全体に帰属しているということをとりあえずわきにおいて、かかわっています。彼は隣人として、最初に来た人として、私にかかわっています。彼はまさにかけがえのない人であるわけです。彼の顔のうちに、彼がゆだねた内容にもかかわらず、私は私あてに向けられた呼びかけを読みとりました。彼を放置してはならない、という神の命令です。他なるもののために、他なるものの身代わりとして存在すること、という無償性の、あるいは聖性のうちにおける人間同士の関係がそれです!
ポワリエ 質問を繰り返すことになりますが、私たちは全員をひとしく愛することができません。私たちは優先順位をつけ、判別します……
レヴィナス というのも「全員」(Tout le monde)という言葉が口にされたとたんにすべてが変わってしまうからです。その場合には、他人(l'autre)はもうかけがえのないものではなくなります。この聖性の価値−−そしてこの慈悲の高まり−−は、全員が同時に出現するという事態になれば、他の人たち(les autres)との関係を排除することも、無視することもできなくなります。ここで選択という問題が出てきます。私は「内存在性からの超脱」(des-interessement)を果たしながら、今度はいったい誰が際立って他なるもの(autre par excellence)であるのかを特定することを迫られるのではないでしょうか?評価(ratio)という問題が出てきます。裁きの要請が出てきます。そのときまさしく、「かけがえのないものたち」(uniques)のあいだで比較を行うという要請が、彼らを共通の種属に還元するという要請が出てくるわけです。これが始原的暴力(premiere violence)です。かけがえのない唯一性(unicite)に対する異議申し立てです。
    −−エマニュエル・レヴィナス、フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)『暴力と聖性−−レヴィナスは語る』国文社、1991年。

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※以下、twitterで深夜に吠えた連投ですが、少しやっぱりぼくの疑うことのできぬ実感だからまとめとして残しておきます。




さて、どうなんだろう。

もういい加減、「人間主義」、「人間主義」って「連呼」するのはそろそろよした方がいいんじゃないだろうか。

別に「人間のために」という方向性を全否定するわけではありませんが、内実の探求も、たらしめる努力も随伴させずお題目として唱える時代ではないんじゃないか。

「人間のために」という表現は、あらゆる党派において「錦の御旗」になっちゃいますよ。

くどいけれども「人間のために」という「心根」を否定する訳ではありません。しかし歴史を振り返ると現実には「人間のために」というものが「人間のために」なったことはほとんどありません。

それを批判するのが現代哲学というわけですが、その議論は少々割愛いたします。

さて……。
「人間のために」って言ってしまえば、要するに誰もそれを否定することができないんですよ。確かに「人間のために」っていうのは大事です。

しかし、それが内省を欠如した運動論として流通する限り必ず破綻してしまうんじゃないかな。4月の反原発デモでは「奇形児」の格好をした演出で耳目を集めたことは記憶に新しいじゃないですか。その言説と運動が背反し、破綻していることだけははっきりしてます。

思索を欠如した運動論のみの隆盛はかならず失敗します。

そのへんをネ、紅衛兵のようにやっていたのじゃだめなんですよ。

私は人間のために、確かに何とかしたいと希いますし、できることには挑戦しております。しかし、その運動というものがひとつの拝外性を内包している限りそれに親和したくないと思うし、警戒してしまう。

「いいことをやっているのだからガタガタいうな」じゃなくて「いいことをやっているのであれば、あらゆる批判は受け入れる」という矜持がない限り、「人間のために」は人間の為にならないのじゃないのかね。

レヴィナス(Emmanuel Lévinas、1906−1995)の『暴力と聖性』をひくまでもなく、「あらゆる人間を愛すること」は原理的に不可能。必ず序列が存在します。その序列を無視して、「おれはすべての人間のために」って吠えるのではなく、負荷を踏まえて、一人から全体に関わる。そうありたいです。

Humanismusにしても脱原発にしても筋道としては完璧なファイナルアンサーにしかすぎない。しかし、ファイナルアンサーを選択するのであれば、それ相応の知的努力・人間世界での葛藤を踏まえ自前の言語で練り上げていくしかない。その努力を放棄した途端それはイデオロギー闘争へと変貌する。

はっきりいえば、既存価値をまもろうとする連中もださいけれども、それ以上にださいのが単なる脊髄反射としてのそれにたいするアンチの運動。ただそれだけですよ。そろそろあたらしい抵抗の美学をつくりあげませんか。

まあ、とにかくめんどくさい奴であることだけはたしかだな。


まあ、とにかく僕自身がめんどくさい奴であることだけはたしかだな。







⇒ ココログ版 「人間のために」って言ってしまえば、要するに誰もそれを否定することができないんですよ。: Essais d'herméneutique



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