1923年9月1日の吉野作造の軌跡





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 最初に目に着きしは事務室の屋根瓦は一トたまりもなくゆすぶり落される光景也。地上の震動にからだもふら/\する 之は容易ならぬ地震だわいと思ふ間に遙に研究室の二階の上の煉瓦壁、法文科本館の夫れ六畳敷八畳敷位のがボタ\/落ち且所々縦に亀裂を生ぜるを見て頓と度肝を抜かるゝの思あり。
    −−吉野作造『吉野日記』一九二三年九月一日。

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1923年9月1日、関東地方をマグニチュード7.9を記録する激震が襲った。ちょうどお昼時であり、折からの強風であおられて各地で火災が発生し、煙火は東京全体に広がった……。

その日その時、吉野作造(1878−1933)……すいません、これは僕の研究対象ですから……は未曾有の災害のなかで、どのように行動したのでしょうか。

その日。
吉野は十時には大学の研究室に出勤。
そして学生の……後にジャーナリストとして名を馳せる……鈴木東民(1895−1979)に頼まれて経済学者・河上肇(1879−1946)への紹介状を書いていたという。現在の岩手県釜石市出身の鈴木東民は、当時、吉野から生活面での援助を受けており、大阪朝日新聞社に就職が内定していた……。

紹介状を書いてから、地震の起こる正午直前。。、
同僚の上杉慎吉(1878−1929)……上杉自体は「天皇親政」論者であり、デモクラシーを説く吉野とは対極のスタンスだったが、両者は友人として親密につきあった……や、日本法制史を専門とする同僚の中田薫(1877−1967)らと昼食をしようと、研究室の建物を出たところで激震が襲った。

吉野はすぐさま、神明町の自宅に戻ったが、自宅は火の手からまぬがれた場所にあり、家も家族も無事。そこでもう一度、大学に向かう。

研究室の資料を整理……しかし、ホントに必要な文献は灰燼に……してから、著書原稿などの重要な書類をカバンにまとめ再び神明町の自宅に戻る・・・。

自宅近辺の火災は二日後にようやく鎮火。
そして、吉野は道を行く知り合いの罹災者に声をかけて自宅に住まわせたという。

時系列でその動きを追跡しましたが……、、、、

なかなかできることではないですよ、ホント。

そして……
震災から三日後の九月四日から二一日までの八回にわたり焦土と化した帝都を歩き回り、倒壊し焼け落ちた瓦礫と死体の焼ける死臭のなかを、知人の安否の確認を求めて歩きつづけた……。

吉野作造の議論は、デモクラシーの制度論としては「カタ手落ち」という批判が数多くあるけれども、僕はそんな批判など容赦しない。

なにしろ、吉野作造は議論はつくりつづけつつも、自分自身で格闘しながら、人々と連帯し、目の前のひとりひとりを大切にした人物だから。

精緻な議論はもちろん必要かもしれません。
しかし、同時に、動くことのできなかった人間だけは信用できませんよ……ネ。





⇒ ココログ版 1923年9月1日の吉野作造の軌跡: Essais d'herméneutique