「面白いですね 『チボー家の人々』」「どこまでお読みになって」「まだ4巻目の半分です」「そお」







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発信箱:黄色い本の青春=伊藤智永ジュネーブ支局)

 思春期の読書。そこには甘美な思い出だけでなく、大人になる苦さと武者ぶるいが交じる。まして、それが時間も場所も隔てたよその世界とつながっていたら。
 赴任にあたり、日本から一冊だけ漫画を持ってきた。高野文子「黄色い本」。卒業・就職を控えた雪国の女子高校生が、長編小説を読み暮らす日々が描かれる。
 図書館で借りた愛読書は、マルタン・デュガール「チボー家の人々」。白水社の表紙が黄色い5巻本は、今や古本屋でひと山2000円(一冊400円!)のたたき売りらしいが、戦後のある時期までは、平和を愛する善男善女の必読書であった。
 女生徒のけだるい日常と、第一次大戦前夜、国際都市ジュネーブ反戦平和に一命を賭す青年ジャック・チボーの青春。二人の境遇の落差がおかしく、それでも青年と心通わせる女生徒のいちずがいじらしい。
 私が「黄色い本」(薄い漫画本と翻訳本5冊)を持参したのは、感傷に浸るためではない。100年前、欧州大戦期のジュネーブ(戦後、国際連盟が置かれた)。1970年代、高度経済成長末期の新潟県(そのころ柏崎刈羽原発が誘致され、田中角栄首相が誕生した)。異質の世界を見事に重ね合わせた高野さんの手法が、21世紀のジュネーブと日本をかがり合わせるヒントになりはしないか、と期待したのだ。
 で、時々、本棚から引っ張り出しては、あてどなくめくる。………。何か、すごい結論でも期待しましたか? 別に、何もありません。そんな簡単に、アイデアなんかあるわけない。で、また本棚にしまう。
 「人道的介入」を理由に欧州諸国がリビア空爆した今日、人権都市ジュネーブには何万人もの人道・人権活動家がいる。もしジャックが知ったら驚いただろう。そして、きっと失望しただろう。
    −−「発信箱:黄色い本の青春=伊藤智永ジュネーブ支局)」、『毎日新聞』2011年10月12日(水)付。

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二十世紀はじめのヨーロッパ。
カトリックのチボー家と、プロテスタントのド=フォンタナン家の人々が、歴史と思想に翻弄されつつも、たくましく生き抜いていく人間ドラマがロジェ・マルタン・デュ・ガール(Roger Martin du Gard,1881−1958)の『チボー家の人々』(1937年、ノーベル文学賞受賞)。

初めて読んだのは、たぶん、大学1年生の夏休みのことだったのではないかと記憶しております。友人に面白いよと勧められて“むさぼるように”白水社の邦訳で読んだのが、その思い出。美しい青春と、そしてそれと対照的な醜い戦争を美しく綴ったマルタン・デュ・ガールの筆致に驚くと同時に、それを勧めてくれ、そして読み進めるなかで、その感慨を語り合うことのできた友人の存在に感謝です。

本は読まないよりも、読んだ方がいい。

日本の教養主義が終わっている、そしてその終わっている形式としての教養主義すら“偏った”実業主義へのシフトから終焉しつつあるのが今日日のご時世。

しかし読まないよりも、読んだ方がいい。

このことだけはやはり断言できます。

しかし、人間は一人で読み抜くほど……もちろん、ひとにもよりますが……できた存在でもないのが事実であるとすれば、共に読む・語り合う友人の存在とは、かけがえのないものだと思わざるを得ません。

冒頭の新聞記事「発信箱:黄色い本の青春=伊藤智永ジュネーブ支局)」を読みながら、そんなことを思い出しつつ、もう一つ想起されたのが小津安二郎監督(1903−1963)の映画『麦秋』(松竹、1951年)のワンシーン。

北鎌倉の駅ホーム。春の陽気が初夏へと彩りを変えようとするその日、矢部謙吉(二本柳寛、1917−1970)と間宮紀子(原節子、1920−)のやりとりがすばらしく美しい。

「面白いですね 『チボー家の人々』」
「どこまでお読みになって」
「まだ4巻目の半分です」
「そお」

書物を介したやりとりほど素敵な言葉というものは、なかなかどうして、他には見つかりませんね。





⇒ ココログ版 「面白いですね 『チボー家の人々』」「どこまでお読みになって」「まだ4巻目の半分です」「そお」: Essais d'herméneutique



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