「耳をかたむけようとすらしないひとびと」さえも説得し、かくして理性の真の普遍性を基礎づける「力」



        • -

……顔の現前化は、真なる現前化というわけではない。真なるものなら、永遠にそれに随伴する真ならざるものに関係し、懐疑家の微笑と沈黙とに出会うことをまぬがれない。顔において存在が現前することは、その現前に矛盾するものが存在する論理的な余地を残さない。だから、顔としての顕現が拓く語りにあって私は、いらだったトラシュマコスが『国家』第一巻でこころみたように(もっともそのこころみは成功するにはいたらないのだけれども)、沈黙することで逃れることができない。「糧をもたない人間たちをそのままにしておくことは、どのような事情によっても打ち消すことのできない過ちである。だから、その過ちには、故意であったかなかったかという区別は適用されない」と、ラビ・ヨハナンは語っている。人間たちの飢えのまえで責任は、ひたすら「客観的に」測られる。この責任は回避不可能である。顔によって拓かれる本源的な語りの最初の語は責務なのであって、どのような「内部性」によってもこの責務を避けることはできない。本源的な語りとは語りへと参入することを義務づける語りであり、語りをそもそも開始することである。それこそが合理主義が切実にもとめることがらなのであって、「耳をかたむけようとすらしないひとびと」さえも説得し、かくして理性の真の普遍性を基礎づける「力」なのである。
    −−レヴィナス熊野純彦訳)『全体性と無限 下』岩波文庫、2006年、45−46頁。

        • -




今日は私淑する20世紀最大の思想家、エマニュエル・レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas、1906−1995)のご命日。

(仏式で言えば)一七回忌。

謹んで手を合わせさせていただきました。

「耳をかたむけようとすらしないひとびと」が猛威を振るったのがこれまでの人間の歩み。

であるとするならば、それが「フツー」な状態であることを承知のうえで、どのように「汝殺す勿れ」の戒律をリアリティのあるものとして受け止めていくのか。

前日の24日はクリスマスイブ。

僕の辞書には「休日はない」。

……というわけで、市井の職場で仕事していたのですが、閉店後かなりの時間が経ってから…フロアで営業時間が違うので…、取り置きしていた商品を引き取りに来たお客様が来店。

別の人間が一次応対にて「その旨」お伝えしたところ、、、

「責任者だせや、ゴルァ」

……って結局、僕が赴かざるを得なくなり、お話を伺い、イレギュラーな対応ですが商品授受をして案件クローズ。

※てか、けっこう面倒な商品だったので探すので一苦労。いきなり恫喝とかなしだろうと思いつつも、それがお客様のお子さまへのクリスマスのお祝いの一品だったようですから……「責任者だせや、ゴルァ」というのもわからなくもないものの、それでも「お客様は神様ではないだろう」と思いつつ、引き裂かれたワタクシ。

まあ、いずれにしても、お子さまも喜ばれ、ゴルァさんも安堵されたことだし、僕も胸をなで下ろしましたから、人間の地平がそこにあるという寸法なんでしょうなぁ(´Д` )

ただ、そんなことを経験しつつ、哲学だの宗教だのの言説を研究していると、まあそのひとこと、ひとことがリアルな言葉として生活の中で「立ち上がってくる」のは否定しがたい事実であり、そのことでは「ゴルァ」さんにも感謝すべきだし、また人間的と非人間的の狭間を示唆する老師の論考には、読むたびに深く啓発をいただいております。

人間の存在への責務。

今日をひとつの区切りに、また自分自身も現実のただ中で考察を深めていきたいと思います。


以上。










L2