愛も手で触ることはできません。だけど、愛が注がれる時のやさしさを感じることはできます。愛があるから、喜びが沸いてくるし、遊びたい気持ちも起きるのよ。




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 はじめて「愛」の意味について訊(き)いた朝のことを覚えている。まだ、語彙が少ない時だった。庭で早咲きのスミレを数本摘み、サリバン先生のところへ持っていった。先生は私に感謝のキスをしようとした。しかし、当時は母以外の人からキスされるのは嫌だった。すると先生は、片手で私をやさしく抱き寄せ、手のひらに「ヘレンのことを愛しているわ」と綴ったのである。
 「愛って何?」
 そう尋ねる私を先生はさらに引き寄せ、私の胸を指差して言った。「ここにあるわ」この時はじめて、自分の胸の鼓動を意識したのだった。しかしこの答えに、ひどく戸惑った。その時はまだ、手に触れられない、抽象的なものを理解することができなかったからだ。
 サリバン先生の片手に握られているスミレの匂いをかいでから、私はこう訊いた。指文字と身ぶりを混ぜた質問である。「愛って、花のいい香りのこと?」
 「いいえ、違うわ」と先生。
 私はもう一度考えた。あたたかい日差しが、ふたりの上に注いでいた。
 「これは、愛ではないの?」この暖かいものがやってくる方向を指差して尋ねた。
 「これは愛ではないの?」
 太陽ほど素晴らしいものはない、と私には思えた。太陽の暖かさのおかげで、あらゆるものが生長できるからだ。だが、先生は首を横に振った。私は意味がわからず、がっかりした。なぜ、サリバン先生は「愛」を具体的に示してくれないのだろう?
 それから一日か二日後、私は違う大きさのビーズを糸に通す勉強をしていた。はじめに大きなビーズを二個、次に小さなのを三個というぐあいに、順序を決めて通していく練習である。だが、ミスばかりしてしまう。先生は忍耐強く、穏やかに、繰り返しミスを指摘してくれた。そしてやっとのことで、配列が間違っていることに気がついた。それから、少しの間、神経を集中し、どの順番でビーズを通せばよかったのか考えようとした。すると先生は私の額に片手を当て、もう一方の手で、私の手に力強くはっきりと綴りを書いた。「考えなさい」
 その瞬間、「考える」ということばが、今自分の頭の中で起きていることを示すのだと分かった。この時はじめて、抽象的な事がらを認識したのである。
 それから私は、長い間、じっと考え続けた−−ひざの上のビーズのことを考えていたのではない。いま得られた新しい視点から「愛」の意味を見つけようとしたのだ。この日、太陽は一日雲に隠れ、時折にわか雨が降った。と急に太陽が顔を出し、南部ならではの強い日差しが降り注いだ。
 私は、また同じ質問をサリバン先生に繰り返した。「これは、愛ではないの?」
 「愛というのは、いま太陽が顔を出す前に空を覆っていた雲のようなものなのよ」これだけでは、当時の私には理解できなかった。そこでやさしくかみ砕いて、サリバン先生は説明を続けた。
 「雲にさわることはできないでしょう? それでも雨が降ってくるのはわかるし、暑い日には、花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう? それと愛は同じなのよ。愛も手で触ることはできません。だけど、愛が注がれる時のやさしさを感じることはできます。愛があるから、喜びが沸いてくるし、遊びたい気持ちも起きるのよ」
 その瞬間、美しい真理が、私の脳裏にひらめいた−−私の心とほかの人の心は、見えない糸で結ばれているのだ、と。
    −−ヘレン・ケラー(小倉慶郎訳)『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫、平成十六年)。

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人間は、言葉によって対象を理解し、その「実在」を了解します。
しかし、「実在」の「了解」とは、対象が物理的に存在することを同義とするわけでもありません。

否、逆の方向から見れば、言葉によって「実在」が規定される……、タゴール風に言えば、人間によって、価値が価値あるものとされ、目に見えなかった真理が真理たらしめられる……とでもいえばいいでしょうか。

そうした言葉との出会いともどかしさをヘレン・ケラー(Helen Adams Keller,1880−1968)が、美しく描写したのが、うえの引用部分。

ことさら言葉に過信する必要もないけど、普請する必要もない。

その中庸さをどこかで学び、身に付けておかないと、人間は観念や実在物の奴隷になってしまう。


……ってことで今日は、ありがたく「松露」を頂戴しております(汗





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