国民が主権者であり、政治の主体者であるという近代民主主義の基本原理を無視した「お上の政治」論がいまだにまかり通っているかのような風土には驚くほかないが……
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西洋近代に誕生した国民国家モデルは、いくつかの下位モデルを生み出しつつ今日までの国際社会の単位として機能してきた。しかし、そうした「近代的」な国民国家の限界と弊害が今日ほど明らかになってきた時代はない。何よりもまず、世俗的な近代国家を目指した結果、「自由と平等、博愛のフランス共和国」などの近代国家の理念や「自由と平等の国」、「神のもとの国家・アメリカ」という建国の理念に代表されていた、多様な国民を一つの社会として統合する「理念」が希薄となり、その結果、国家機構や権力の存立そのものが目的となり、国民が国家に再び隷属させられかねない危険性が生まれている。一部の政治エリートによるテクノロジカルで操作的な支配、国民を管理・操作する機能が強化される傾向にある。支配の暴力性が現代的なスタイルで顕在化してきたということもできる。その一方で、一般国民の社会全体への責任や他者との連帯、政治的関心などの社会的な行為を生み出す倫理的基盤も解体しており、孤立したバラバラの個人が任意の行動をとる様相を呈しはじめている。
このような傾向は、個人主義や民主主義の原理を内発的に発展させられなかった日本をはじめとする後発近代国家社会においては顕著に現れている。日本では宗教法人法が「改正」され、宗教団体の自由と自治、社会的活動をさらに制限しようとする政府と、信教の自由は社会活動を伴う市民的自由の基盤であり、それを制限すべきではないという主張が対立している。宗教は民主主義と相入れないという暴論が政治家から語られ、政教分離原則は宗教を国家権力から引き離すためのの制度であるという一面的な主張が展開されている。国民が主権者であり、政治の主体者であるという近代民主主義の基本原理を無視した「お上の政治」論がいまだにまかり通っているかのような風土には驚くほかないが、当事者たちの利害関係を背景にした論議を超えて考えると、これからの日本社会をどのように形成するかというナショナル・アイデンティティーをめぐる論争でもある。これらの極論は、いずれも欧米のモデルをどのように解釈するかという視点しか見えてこない。日本が東アジアの歴史と文化に属する点を考慮に入れた冷静な論議が、今ほど必要なときはあるまい。アジアおよび国際社会の真正なる一員として、模倣でない国家像、ナショナル・アイデンティティを形成していかねばならないといえよう。
−−中野毅「宗教・民族・ナショナリズム」、中野毅・飯田剛史・山中弘編『宗教とナショナリズム』世界思想社、1997年、21−23頁。
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1995年の阪神大震災、そして続く地下鉄サリン事件によって、宗教を根幹とする思想・信条の自由は、制限されても「やもう得ない」という風潮から、憲法で保障された「結社の自由」と「信教の自由」を尊重した「宗教法人法」が翌年、大きく「改悪」されることになる。
改悪から10数年、監督義務を強化させたにもかかわらず、結果として見れば、監督義務の怠りが理由で、問題は野放しのままだし、それを支えるべき人間のエートスは劣化の一歩をたどるばかり。
その意味では、当時、私は大学生でしたが、当初から思っていたとおり、人間の自由を保障する大切な法律に手を加え、国家権力による「介入」を認めるのではなく、様々な現行法で対応する方が小回りが利くのではないかと思っていたのですが、その通りのような状況。
結局は、少年犯罪の件数と同じトリックで、針小棒大で、「介入しよう」と目論む権力とそしてそれに荷担するメディア……。
※くどいけど権力バーサスなんとかという単純な見取り図で全て説明できるなどとは思っていませんが、一応、実体としての機能も否定できないので、そう表現しております。
しかし最大の問題は、問題は、人間の自由を「めんどくさくなって」人間自身が手放してしまうこと。
人間は自由であればあるほど、その自由の重荷に耐えることができない、とフロム(Erich Seligmann Fromm,1900−1980)をひくまでもない。
そしてその心情がうまーく利用されていく。
異なるものを排除せよ、それが一国民主主義(キリッ……っていう風に。
上に引用したのは、宗教社会学者中野毅先生の「宗教・民族・ナショナリズム」のほぼ末尾の部分から。出版が1997年だから、ちょうど宗教法人法改悪の翌年にあたる。
問題点の指摘と展望がコンパクトにまとめられている部分だと思ったので抜き書きした。
「宗教は民主主義と相入れないという暴論が政治家から語られ、政教分離原則は宗教を国家権力から引き離すためのの制度であるという一面的な主張が展開されている」。
「国民が主権者であり、政治の主体者であるという近代民主主義の基本原理を無視した『お上の政治』論がいまだにまかり通っているかのような風土には驚くほかない」
この二つの問題は正面から議論されることなく、そのまま流通しているのが現代だし、より状況は悪化の一途を辿っている。
首長が公務員の内面調査を「アンケート」と称して行おうとすることに誰も違和感を覚えないし、国旗・国歌の「強制」を「職務義務」などとすり替えて議論されることも同じ。
欧米のモデルをそのまま輸入する必要はない。
しかし、「日本が東アジアの歴史と文化に属する点を考慮に入れた冷静な論議が、今ほど必要なときはあるまい。アジアおよび国際社会の真正なる一員として、模倣でない国家像、ナショナル・アイデンティティを形成していかねばならないといえよう」。
という創造が必要な岐路において出てくるのは、画一的な戦前礼讃と思想統制は「やむを得ない」というシニシズム。
自分が好きな場所に……もちろん自分自身のコストによってですが……自由に生けること。
好きな歌を歌えること。
興味のある本を読むことが出来ること。
何かを信じる、そして信じるものを変えたりすること。
自由とは当たり前の「空気」のように流通している。
だからその「ありがたみ」が感じにくいかもしれないけれど、それがひとつひとつ「統制」下におかれていくということがどういうことか時々想像した方がいいかも知れない。
大多数の日本人は、ほとんど「葬式仏教」式の受容だから、宗教に興味がないことは承知している。だとしても、その「無関心」に安住して、「宗教が制限される」ということを「対岸の火事」と眼差すことは、足下をすくわれることになる。
※めんどくさいから一応言及しておくが、宗教そして宗教の周辺部分としてのスピリチュアルに起因する犯罪をスルーせよと言うわけではない、念のため。
なぜなら信教の自由が人間精神の自由の根幹をなすからだ。
ここから、表現の自由、結社の自由、思想信条の自由への圧迫は容易なものになるし、その逆もしかり。
すこし敏感になった方がいいこともあると思う。