比喩や象徴などを理解する方法。それらを解釈しようとくわだてないこと


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 比喩や象徴などを理解する方法。それらを解釈しようとくわだてないこと。光が溢れ出てくるまで、じっと見つめつづけること。
 一般的に、知性を訓練する方法は、見つめることである。
 実在するものと幻想上のものとを見分けるために、この方法を用いること。感覚による認識の場合に、自分の見ているものに確信がもてないならば、目を離さずに自分の場所をかえてみると、実在があらわれてくる。内面的生活においては、時間が空間のかわりをする。時間がたつにつれて、人は変化するが、さまざまと変化する中にも、同じ一つのものにじっと目を向けつづけているならば、ついには、幻想は消え去り、実在があらわれてくる。その条件としては、注意が執着になってはならず、ただ見つめるということでなくてはならない。
    −−シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵ちくま学芸文庫、1995年、199頁。

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細君が所用にて外出のため、月曜の夜は、子供と一緒に過ごしていたのですが、そこで気づいたことが少しありました。

一緒に過ごしたといっても、別に何か一緒に遊んだわけじゃないのですが、まあ、要するに、同じ部屋で、ふたりでそれぞれのことをやりながら、「留守番」をしていたと表現した方が精確なのですが、本を読んだり、おもちゃで遊んでいる姿を観察すると、対象について、それをそのまま受容している様子に驚いた次第。

本を読むにしても、牽強付会のような都合のいい解釈をするわけでもなく、実在物としてのおもちゃで遊ぶにしても、遊び手が恣意的に対象をコントロールしているわけでもありません。

その意味では、対象に対して「集中する」「注意を注ぐ」ことに真剣であり、それは大人以上のものがあるのじゃないか。そう実感した次第です。

小学3年生ですけどネ。

驚くばかりです。

ただ、日本の国語教育は「感想主義」がそのメインストリームにあるから、恐らく今後そうした洗礼を浴びてしまい、対象に即さない「独白」になってしまうのかッ!!!

……っていう恐怖もあるのですが、「集中する」「注意を注ぐ」という流儀はどこかで大切に持ち合わせ続けさせたいとは思う次第です。








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