「善良であること」「親切であること」を人は笑うでしょうが、
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自己を気遣うよりさきに他の誰かを気遣うこと、他の誰かを見守ること、自己の責任を引き受けるよりさきに他の誰かの責任を引き受けること、こういうった行いのうちにはたしかに聖性が認められます。人間性とはこの聖性の可能性のことです。この守護のスローガン、「善良であること」「親切であること」を人は笑うでしょうが、私はこれをまじめに受けとめているのです。このことをつきつめて考える必要があります。厳密に峻烈に考える必要があります。他なるもののために、その身代わりとしてあること、他者の責任を引き受けること、愛すること!
−−エマニュエル・レヴィナス、フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)「レヴィナスとの対話」、『暴力と聖性』国文社、1991年、134頁。
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昨日は、台湾在住で日台の文化研究を志す若い優秀な研究者の方と一献。
twitterでこれまでやりとりをしていたのですが、7月に来日されるということで、「是非、盃を」という話になりまして、急遽、実現しました。
自分自身の研究と交差する議論もあったり、はじめて聞く話もちらほら。
そして、案外、お互いに近い関係であったりすることに驚くと同時に喜ぶという訳で……がっつり呑んでしまった次第です。
Aさん、昨夜は遅くまで、ありがとうございました。
また機会があれば是非宜しくお願いします。
しかし、何といいますか。
これは尊敬するS先生からの受け売りですけれども、対面コミュニケーションであろうが、それがSNSのようなコミュニケーションであろうが、結局はそれは「形式」にすぎない。
形式は違うが中身は同じであり、その中身の同じというのは何かといえば、結局は言葉を発する者とそれを受けとめる者としての人間がそこに存在するということ。
だとすれば、対面は大事で、ネットはおろそかにしてよい、対面ではしゃちほこばって話して、ネットでは罵詈雑言ですませてよい……っていう短絡的な話にはならない。
かんたんな理屈ですが、わりと割り切ったり、スルーしたりしてふるまってしまうという落とし穴を避けながら、相対(あいたい)していくしかないですね。
ともあれ、昨日は遅くまでありがとうございました。