書評:藤井省三『魯迅 −−東アジアを生きる文学』岩波新書、2011年。


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 竹内好はこのような“哥”と“哥児”とを区別することなく、旧訳版でも改訳版でも「閏(ルン)ちゃん」「迅(シュン)ちゃん」と訳している。これはたとえば農地改革で地主制度が消滅し、身分差が縮小した戦後日本社会に合わせて魯迅文学を土着化したものであろうか。竹内好によるこのような意訳は、原作者魯迅に対するリスペクトを欠いているのではないだろうか。
 大胆な意訳と分節化した翻訳文体により、竹内好魯迅文学を戦後日本社会に土着化させるのに成功し、中学国語教科書が魯迅を国民文学並みに扱うようになった。これは竹内訳の大きな功績といえるだろうが、そのいっぽうで、竹内訳は伝統を否定しながら現代にも深い疑念を抱いて迷走するという魯迅文学の原点を見失ってしまったのである。
    −−藤井省三魯迅 −−東アジアを生きる文学』岩波新書、2011年、183頁。

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文豪・魯迅像についての完成された形容を一新する評伝。

その生涯を東アジアの都市遍歴(東京−北京−上海)という視点で辿ると同時に、その作品が東アジア共通の共通の「古典」として受容された経緯と現在を明らかにする。「竹内好魯迅」超克の試みでもある。

前半の2/3が評伝で、後半の1/3が受容経緯と現在を語るものという構成になっている。第1章は「私と魯迅」! 魯迅より先に、著者自身の魯迅との出会いからその旅は始まる。魯迅が民族と自身の暗部を凝視したことは、とりもなおさず、現代に生きる私たちが自分自身を学びなおすことにほかならない。

まずは評伝部から。
通常「苦渋に満ちた留学時代」と評される東京・仙台時代。筆者は「刺激に満ちた留学体験」であることを明らかにする。漱石を愛し、世界文学へ目を開くのもこの時期である。帰国後の官僚学者から新文学者へ。そして上海時代と晩年が丁寧に纏められている。

許広平とのロマンスののち、上海にて、ハリウッド映画を楽しむ近代的都市生活者としての魯迅の姿は印象的である。魯迅はターザン映画がお気に入りであった。晩年の命がけの独裁批判は学ぶ点が多い。魯迅が守旧と近代の両面を批判したのは権威を利用・迎合する人間の精神だと分かる。

さて本書の読みどころは、第7章「日本と魯迅」、第8章「東アジアと魯迅」、第9章「魯迅と現代中国」ではないだろうか。日本の魯迅研究をリードした竹内好に対する筆者の批判は、実証に裏打ちされながらも痛烈である。竹内の歪曲は魯迅へのコンプレックスの裏返しに他ならないと本書はあばきだす。

「伝統と近代のはざまで苦しんでいた魯迅の屈折した文体を、竹内好は戦後の民主化を経て高度経済成長を歩む日本人の好みに合うように、土着化・日本化させているのではないだろうか」(180頁)。

そして「伝統を否定しながらも現代に深い疑念を抱いて迷走する」魯迅の原点を示す。

7〜9章では、日本だけでなく東アジア文化圏の「モダンクラシックス」として魯迅の受容と現在を概観する。村上春樹魯迅の関係についての言及は瞠目すべき話題であるし、魯迅作品の初の外国語訳は日本ではなくハングルであったという指摘には驚いた(2ヵ月はやい)。

村上春樹の東アジア受容や魯迅の関係から夏目漱石魯迅村上春樹を中心とする「東アジアにおける魯迅『阿Q』像の系譜」という国際共同研究を筆者は立ち上げたようである。また毛沢東魯迅を聖人化して利用した。その結果、大陸では「食傷」も起こるというのも興味深い。

本書は確かに新書サイズの評伝である。しかし240頁足らずの新書の中に長年の成果と現在、そして筆者の感情までもがぎっしりつまった本である。光文社古典新訳文庫より筆者は魯迅の作品を訳している。次はそちらを手に取ってみようと思う。











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