「もしそこに怪物どもがいなかったなら、このさもしさはなかったろう」と……って怪物は私であり貴方であること。
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ところで、倫理的な断罪のある一定の形体において、否定するという逃避的なやりかたがある。要するに、こう言うのだ。もしそこに怪物どもがいなかったなら、このさもしさはなかったろう、と。この荒っぽい判断においては、怪物どもは可能性から切除されている。暗に、可能なものの限界から、かれらがはみ出たことを弾劾しながら、まさしくかれらの過剰こそ、この限界を決定するものであることを、見とどけようとしないのである。おそらく、言語活動が一般大衆にむけられている限りでは、この子供っぽい否定も有効だろうが、実際にはなにものも変化させてはいないのだ。それに、残忍さの絶えざる危険を否認することは、肉体的な苦しみ危険を否認することとおなじく、むなしいことである。残忍さをただ月なみに、人間的なものはなにもないと勝手にひとが創造する党派や種族の特性であるとするなら、残忍さの諸結果はほとんど予防できないものとなるだろう。
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もちろん、目ざめは、可能なおぞましさに対する絶えざる意識を要請するものであり、それを回避しようとする(あるいは、時が来れば、それと対決しようとする)手段以上のものである。目ざめは、ユーモアとともに、また詩とともに、はじまるものだ(ルッセの作品の少なからぬ意義は、同時にユーモアも肯定的に示されており、作品からにじみ出ているノスタルジーが、けっしてみちたりた幸福へのノスタルジーではなく、詩のさまざまな陶酔の動きへのノスタルジーである点にある)。
−−バタイユ(山本功訳)「死刑執行人と犠牲者(ナチ親衛隊と強制収容所捕虜)に関するいくつかの考察」、『戦争/政治/実存 ジョルジュ・バタイユ著作集14』二見書房、1972年、46−47頁。
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現実に「非人間的」な「悪魔的」な「怪物」的な出来事はたくさん、存在する。それをしっかり把持し、対峙していくことは必要だとは思う。
しかし、その現実に存在する「非人間的」な「悪魔的」な「怪物」的な出来事のほとんどは、人間の外に存在する事物というよりも、どちらかといえば、人間そのものであったり、人間に由来する場合の方が多いのではあるまいか。
その対峙において、それを対象として外在化したアプローチではどこまでもそれを回収することは不可能なのかもしれない。
バタイユの小論を読みつつ、そんなことを想起した。
人間に起因することを人間以外に見出していくとは、まさに「可能なものの限界から、かれらがはみ出たことを弾劾しながら、まさしくかれらの過剰こそ、この限界を決定するものであることを、見とどけようとしない」ことと同義であろう。
何に対して目ざめていることが要請されるのだろうか。
それは自分自身を含めた人間という存在に対してであり、外在物としての「対峙」としてはではなく、「ことがら」としての向き合いなんだろう。
そしてその「目ざめは、ユーモアとともに、また詩とともに、はじまるものだ」。
この一節は意義深い。