書評:深井智朗『思想としての編集者 現代ドイツ・プロテスタンティズムと出版史』新教出版社、2011年。


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 かつて思想家としての編集者は存在しなかった。教会や国家がその役割を果たしていたのである。しかし近代に起こった教会と国家の世俗化と表現の自由の獲得の歴史は、編集者が思想家であることを可能にし、それを求めるようになった。しかし他方で思想は検閲や正統性というものから切り離されたので、また大学やアカデミーの外での学問が可能となったので、思想が市場に持ち込まれ、そこでふるいにかけられ、商品化されるようになった。その時、著者と読者という関係ではなく、著者と市場、市場と読者を場介する編集者が登場することになった。第一部ではその問題を近現代のドイツ・プロテスタンティズムという歴史的サンプルを通して考察してみた。そこに大きな文化的、社会的、政治的転換のみならず、思想史的な転換が生じていることを考察したのである。それが「思想としての編集者」という視点であった。編集者の思想が、編集者の政治的立場が、思想史の問題になったのである。
    −−深井智朗『思想としての編集者 現代ドイツ・プロテスタンティズムと出版史』新教出版社、2011年、170頁。

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 20世紀プロテスタント神学の歩みを「編集」の観点から考察する労作。

 バルトやティリッヒも編集者(知のプロデューサー)がいなければ存在しない! 20世紀とは、学問が広く大衆に開かれていった時代である。この拡大は出版環境への多大な影響を与えることになる。「著者−読者」から「著者−編集者−読者」という構造の転換がそれである。編集者は単なる出版「元」ではなく、市場が必要とする思想を供給する、さらには時代を生成するコーディネーターへと変貌する。このことはバルトやティリッヒをはじめとする神学、ヴェーバーといった社会思想に留まらず、ナチスの「神学」流布に関しても同じである。

 まず冒頭で、ティリッヒを取りあげ、思想のテクストとその土壌となるコンテクストの相関関係(思想・作品と編集者の関係)を緻密に分析する。そして「編集者とは誰か」「誰が編集者か」として探究される。これが本書の構成である。情報知識社会においては、どのような優れた作品であろうが、それをプロモートする「媒介」が存在しない限り、影響力を行使することは不可能であろう。だとすれば編集者が市場に敏感になるのは必然であるし、ナチスの登場は「大衆の舌を満足させる」ソフィストが過去のものでないことも明かである。

 本書は、二〇世紀前半のドイツ・プロテスタンティズムの需要と神学の正当性を主たるテーマとするが、市場の動向が公議の出版活動全体を覆い尽くすとき、何が起こるのか。この問いかけは重く受けとめるべきであろう。その意味で本書は狭義の「神学議論」ではなく、極めてアクチュアルな現代批評と捉えるべきである。本書は単なる神学思想史に留まらないし、軽薄な知識社会論でもない。近現代のドイツ思想史を取り扱いながらも、人間の活動(アレント)と思想の関係を、豊富な事例から分析する。誰もが「編集者」の現在、根源的考察の本書は広く読まれて欲しい一冊である。

なお著者はアウグスブルク大学で哲学博士号を、京都大学で文学博士号を取得し、ヴィルヘルム帝政期とヴァイマール期の神学・哲学思想を専門に研究されている。既刊の二著、『超越と認識』(創文社)では中村元賞(2004年)、『十九世紀のドイツ・プロテスタンティズム−−ヴィルヘルム帝政期における神学の社会的機能についての研究』(教文館)では日本ドイツ学会奨励賞(2009年)を受賞されている。



(蛇足ですが)
 しかし、軽薄な現代批評だか、歴史「ネタ」的書籍が次々と流通する中で、ひさしぶりに、一般向けの「ほんもの」の本を読んだような気がする。




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思想としての編集者
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深井智朗
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