覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『肯定の心理学−−空海から芭蕉まで』=熊倉伸宏・著」、『毎日新聞』2012年10月21日(日)付。




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今週の本棚:村上陽一郎・評 『肯定の心理学−−空海から芭蕉まで』=熊倉伸宏・著
 (新興医学出版社・2625円)

 ◇自他を超えて響き合う「開き」への誘い
 自殺願望の女性がひとり。幼児体験の問題を抱えていた上に、最近最も親しくしていた友人を突然失った結果である。ハイデガーを含む哲学・思想に沈潜し、研ぎ澄まされた知性と感性を備えている。「あなたを愛している人がいるから」、「あなたの命はかけがえのないものだから」。こうした「やさしい言葉」は、その女性のこころに響かない。親友が死んでも、自分は「生きている」。とすれば、それらの言葉の真実はどこにあるのだろう。

 この女性と業務上向き合わなければならなかった精神科医がひとり。永年すぐれた臨床家として経験を積みながら、このクライアントを前に、かなりな時間沈黙せざるを得ない。心の治療の専門家としての、あらゆる可能な技術も言葉も、ここでは相手に届かない。この絶体絶命の立場に立たされた医師は、最後に、素直にこう言う。「死にたいと聞くと私には生きたいと聞こえるのだよ」。この医師の反応を、相手の言葉を逆手にとった説得の、あるいはまして、多少の皮肉を込めたやりこめの言葉ととってはならない。そのとき医師は、一切の技巧無く、相手と一体化し得ており、その状態から自動的にあふれてきた言葉が、その反応だった。

 その医師が、本書の著者である。著者は、そのときの状況を、空海の世界観を使って理解しようとする。空海とは突然のようだが、最新の科学的精神医学に立ちながら、著者の思想遍歴は長い。万巻の哲学書に接するのはもとより、師と仰ぐ土居健郎を通じたキリスト教への関心、あるいは四国での遍路をやり遂げた経験など、宗教的境地への理解も深い(自身は今でも、どの宗教の信徒でもない、と言われるようだが)。そうしたなかで、空海の『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』に出会う。
 難しそうで、実際難しいはずだが、著者は、自分の臨床体験と重ねながら、空海の言葉を、自分の言葉に置き換えて、平明に述べていく。その言葉一つ一つが、それ以外にはあり得ない思いで綴(つづ)られていると思われるので、ここで、さらに評子が、解説的に読み替えるのは憚(はばか)られるし、結果はある意味で陳腐なものになる懼(おそ)れが大きい。つまりは本書(大きなものではない)に直接あたって戴(いただ)くほかはないのだが、それでは役目が果たせないので、ごく簡単な骨子を述べてみよう。近代的個我の成立によって、人間は「他者」と切り離される。このとき「他者」とは、必ずしも「人間」だけを意味しない。むしろ「自然」全体と言ってもよい。ここでも「自然」は本来「人間」と対立させられたものではなく、要するに「全世界」とでも言うべき何かであろう。「閉ざされた自己」を世界に向かって開くとき、自他の区別を超えたすべてが響き合う状態が生まれる。

 閉ざされた自己に向き合う世界は、いやでも、自己に対して死を考えさせる。しかし、開かれた世界のなかでは、自他、否定と肯定の対立を超えた「全肯定」の契機が生まれる。

 こんな風に纏(まと)めてしまうと、その話ならハイデガーにある、とか、この言い分ならフロイトが、ユングがすでに、という反応があるに違いない。確かに、別に空海を通じなくとも、同じような境地へと誘うものは、多々あるのかもしれない。しかし、本書における著者は、空海の書のなかに、この、一言で言ってしまえば「開き」を得たのであり、その経緯は極めて説得的である。つまり、最初に述べた女性のクライアントに対する医師の言葉は、まさに、この「開き」のなかで生まれたものだったのである。
 本書の後半は、芭蕉の生涯を、「憂さ」から「寂しさ」へのこころの変遷という形で、病跡学的な手法によって追いながら、「寂しさ」に対抗するために、近代人は「自立した自己」、「自我の確立」で武装したことを指摘する、ユニークなエッセーになっている。エッセーと書いたが臨床家にとっては、大切な指針ともなるのでは、と思う。俳句との関連では、黒田杏子氏との交遊から、アビゲール・フリードマンの『私の俳句修行』(中野利子訳、岩波書店、二〇一〇年)を取り上げたエッセーが付されている。これもユニークな視点が盛られた、すぐれた書評になっている。書評欄で、扱う本のなかの書評を紹介するのも、いささか興味ある体験となった。

 最後に、評子自身は、キリスト教の片隅に身を置く人間だが、仏教への関心も決して希薄ではなかったつもりである。とりわけ道元の書は座右にあると言ってもよい。それなりに、理解も届いている、と思ってきた。しかし、本書を読んで、自分の仏教への理解が、やはり机上のものでしかなかったと思い知らされた。著者の空海へのアプローチを、仏教の専門家がどのように評価されるか、評子には皆目判(わか)らない。しかし、少なくとも評子は、本書によって、仏教の根本に、大きく啓(ひら)かれた、という思いしきりである。その意味で、熊倉さん ありがとう。
    −−「今週の本棚:村上陽一郎・評 『肯定の心理学−−空海から芭蕉まで』=熊倉伸宏・著」、『毎日新聞』2012年10月21日(日)付。

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