もし我々がピカソとダリのどちらかを選ぼうとすると、この世で理想的な絵がモナリザだという診断(たとえそのような先験的診断が可能であるとしても)を行っても何の役にも立たない。
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先験的アプローチの問題は、単に正義の評価にとって適切だと主張しうる、競合する原理が複数、存在しうるということのみから生じるのではない。完全に公正で特定可能な社会的取り決めが存在しないという問題は重要であるが、正義の実践理性に向けての比較によるアプローチを指示する決定的に重要な議論は、単に先験的理論の実行不可能性にあるのではなく、その過剰性にある。もし、ある正義論が理に適った政策や戦略や制度の選択に導いてくれるなら、完全に公正な社会的取り決めを特定するなどということは必要でもないし十分でもない。
例で示せば、もし我々がピカソとダリのどちらかを選ぼうとすると、この世で理想的な絵がモナリザだという診断(たとえそのような先験的診断が可能であるとしても)を行っても何の役にも立たない。それは聞いておもしろいかもしれないが、ダリかピカソを選ぶという問題にとっては何の関係もない。実際、我々が直面している二つの絵のどちらかを選ぶために、何がこのせかいで最も偉大な、あるいは最も完全な絵かについて語ることは全く必要なことではない。また、選択が実際にはダリかピカソの間で行われるとき、モナリザがこの世で最も完全な絵であることを知ったところで十分ではないし、実際、特に役に立つわけでもない。
このことは、ちょっと見た目には簡単に見えるかもしれない。しかし、先験的な選択肢を特定するための理論が、その過程を通して、相対的な正義について知りたいことをも語ってくれるということはないのだろうか。その答えは「ノー」であり、そういうことにはならない。
−−アマルティア・セン(池本幸生訳)『正義のアイデア』明石書店、2011年、50−51頁。
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センの『正義のアイデア』(明石書店)、春先にざっくり読んだのですが、今週から読み直し中。ロールズを意識しながら、不正義を減らすことによる正義の確立を論じたものですが、「正義論」の良書ですね。600頁の大部ですが、読みやすくおすすめですよ。
先験的アプローチが無益ではないけれども「もし我々がピカソとダリのどちらかを選ぼうとすると、この世で理想的な絵がモナリザだという診断(たとえそのような先験的診断が可能であるとしても)を行っても何の役にも立たない」。
たしかに、ピカソかダリか議論しているところに、モナリザこそが最高善なのですよ、と言われても困ると言えば困りますよね。
センは不正義を逓減させることに注目しようと説きますが、それまさにピカソかダリかという議論と同じでしょう。しかし、人は、現実をかけ離れて(これも単純な現実か理念かの二元論ではありませんが、傾向として)、最高善をどうしても目指してしまう。そしてそれを把持してから判断を下そうとする。
これはもはや性(さが)なのかもしれませんし、探求が無益というわけでもありません。
ただそれはそれとふまえたうえで、相対的レベルと嘲笑われるかもしれませんが、どちらかが価値的なのか、という生活世界での判断を簡単に切り捨てないようにはしたいものですね。
昨今、そういう「ウエメセ」な議論ばかりですから……。