覚え書:「今週の本棚:本村凌二・評 『西洋古典叢書 ヘシオドス 全作品』=中務哲郎・訳」、『毎日新聞』2013年06月16日(日)付。




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今週の本棚:本村凌二・評 『西洋古典叢書 ヘシオドス 全作品』=中務哲郎・訳
毎日新聞 2013年06月16日 東京朝刊



 (京都大学学術出版会・4830円)

 ◇偉業の百冊目に刻む「人類の精神の黎明」

 あたり前すぎて気づきもしないが、アルファベットは人類最大の発明という。フェニキア人が開発しギリシア人が普及させた二十数種であらゆる言葉を表記する文字。そのギリシア語最古の詩人にホメロスと並んでヘシオドスがいる。

 前八世紀の人らしいが、文字を使ったかどうかはおぼつかない。おそらく口承詩として伝えられ、後に書き記されたものだろう。現存するヘシオドス作品の最古のパピルス断片ですら前一世紀のものだから、詩人の時代から七百年が経(た)ったことになる。中世まで残存し写本の形で伝わるものもあるが、最古でも十一世紀をさかのぼることはない。

 このようなパピルス断片や写本を参照しながら、近代の古文書学者が校訂本を刊行する。さらにこれらの校訂本を日本の西洋古典学者が日本語に訳すのだ。ヘシオドスから邦訳書までたどりつくには、気の遠くなるような歳月が流れ、手間がかかっている。

 ギリシア語やラテン語で書かれた古代の作品が日本語で読める。数多(あまた)の忘却や消失の危難を考えれば、奇跡に近い。しかも、それが百冊も刊行されたのだから、これはもう大偉業と言うしかない。京都大学学術出版会の「西洋古典叢書(そうしょ)」が百冊目をむかえ、それらが書棚に並ぶ様は壮観である。

 さて、その記念すべき百冊目が本書である。ヘシオドスといえば、なによりも真作の二つが思い浮かぶ。

 『神統記』には、おびただしい神々が登場し、天上の支配者が交替する。天空(ウラノス)の性器は末子のクロノスの手で切り取られ、海に投げ捨てられる。そこに湧き立つ泡(アプロス)から美と愛の女神アプロディテが生まれ出る場面は名画にもなり、やはり印象深い。クロノスの末子ゼウスが誕生し、やがて父親を屈服して不死なる神々の王となる。このゼウスの正義こそが世界を秩序づけると詩人は謳(うた)う。神々の系譜は複雑きわまりないが、この世の不可解さを象徴するかのようだ。

 『仕事と日』は、怠け者で邪(よこしま)な兄弟ペルセスに教訓を語る。タイトルから想像されがちだが、季節ごとの農作業や吉凶日の示唆は意外と少ない。むしろこの世に生きるための心構えが自在に語られる。ヘシオドスの父親は「みすぼらしい村に住みついたが、それが冬は辛(つら)く、夏は堪えがたく、善き時とてないアスクラだった」という。ところが、この村を訪れた学者は「美しい景色、快適な夏の避暑地、肥沃(ひよく)な野に囲まれ、冬中穏やかな気候に恵まれた地」と報告している。なぜかくも故郷を酷評するのか、想像がかけめぐる。そのひとつとして、詩人の心象風景を思い描くのもいいだろう。たとえば、われわれには恥を知り希望をいだくことは大切だと思える。だが、ヘシオドスは主語だけを変えて「恥の心は、貧窮した男を世話するには役立たぬ」「希望は、貧窮した男を世話するには役立たぬ」とくりかえす。ここには現代人には想像できない心の世界があるような気がする。

 ところで、本書の大半は真作・偽作のほどがわからない『断片』にあり、ありがたいことに本邦初訳である。たとえば『ペイリトオスの黄泉(よみじ)降り』という名で伝わる断片がある。生者が冥界に降(くだ)る物語だが、残念ながらわずかなパピルス断片しか残っていない。

 それにしても、ヘシオドスには人類の精神の黎明(れいめい)する姿がある。百冊目の本書を書棚に並べると、おのずと頬がほころぶような嬉(うれ)しさがこみあげて来る。
    −−覚え書:「今週の本棚:本村凌二・評 『西洋古典叢書 ヘシオドス 全作品』=中務哲郎・訳」、『毎日新聞』2013年06月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130616ddm015070002000c.html



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