「われわれはなにもかもが人間の尺度にあわない世界に生きている」からこそ。




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 数世紀におよぶ進化をとげたあげく、われわれの時代になって近代文明がとるにいたった形態ほど、これまで述べてきた理想にいちじるしく逆らうものは、まずもって構想不能である。個人が偶然まかせの集合体にかくも完璧にゆだねられたことはなく、おのれの行動を思考に服させるなどもってのほか、そもそも思考すらおぼつかないというのは、かつてない事態である。抑圧者と被抑圧者という語、階級という観念などは、ことごとく意味を失う寸前にある。それほどまでに、心をうち砕き精神を踏みにじる機械、無意識や暗愚や腐敗や無気力、なかんずく眩暈をさそう機械と堕した社会機構を前にしたとき、万人がおぼえる無能力と苦悩がどれほどのものかは自明である。
 この痛ましい事態の原因はあきらかだ。われわれはなにもかもが人間の尺度にあわない世界に生きている。人間の肉体、人間の精神、現実に人間の生の基本要因を構成する事物、これら三者のあいだにおぞましい不釣合いが介在する。いっさいが均衡を欠く。より原始的な生をいとなむ孤立した小集団ならともかく、互いを食らいつくすこの不均衡を完全にまぬかれるような、人間の範疇(カテゴリー)や集団や階級は存在しない。そして、このような世界で育った若者や育ちつつある若者は、他の人びと以上に周囲の混沌をおのれの内部に反映する。この不均衡は本質的に量の問題である。ヘーゲルがいうように量は質に変わる。人間的な領域から非人間的な領域への移項には、たんなる量的差で充分である。抽象的には、尺度の単位を恣意的に変えられる以上、量はどうでもよい。しかし具体的には、ある種の尺度の単位は不変数として与えられ、今日まで不変数のままである。たとえば人間の肉体、人間の生命、年、日、人間の思考の平均速度のように。
 現在の生はこれらの尺度にあわせて組織されていない。生はまったく次元の異なる単位に転移してしまった。あたかも人間がおのれの本性(ナチュール)を考慮するのを怠って、外的自然(ナチュール)の諸力の次元にまで生を高揚させようとしたかのごとく。そして、どうみても経済体制は構築する能力を使いはたし、おのれの物質的基盤をしだに覆すためにのみ機能しはじめたとつけ加えるならば、現世代の運命を構成する歯止めなき悲惨の真の本質が、粉飾のないあらわな姿で浮かびあがるだろう。
    −−ヴェイユ(冨原眞弓訳)『自由と社会的抑圧』岩波文庫、2005年、119−120頁。

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本日にて、哲学入門の前期授業が終わりました。今季は、大学の行事と重なり1回少ない構成だったので、最後がかなりきつい構成となり、受講者の皆様には、おせおせの授業をしてしまい大変もうしわけございませんでした。

ただ、これは何度もいっていることなのですが、結局の所、哲学とか倫理学という学問は、教室で学んだからナンボ、本を読んだからナンボ、という話ではありません。


教室でナンボ、本を読んだからナンボというのは、“畳みのうえで水泳”をするようなものですから、授業の終わった今日から、ひとりひとりの生活のなかで、本を読み思索し、友と語り、そしてまた自分自身にそれをもどしていく……その繰り返しの中で、強く考え抜いていくことが養われていくのだと思います。

出来合の言葉をさも自分の言葉のように錯覚するのではなくして、力強い考え方をみにつけていく……そこに哲学を学ぶ意義は存在すると思います。そしてそこにこそ、「哲学の教室」は存在する訳ですから。

さて、伝統的な西洋思想史においては教養が人格を涵養するものだといわれてきましたが、その意義では、皆さんにはほんとうの「哲学の教室」のなかで、書物と対話し、歴史と対話し、そして生きた人間と対話していく……そのなかでそれを養っていって欲しいなと僕は思います。

ヴェイユがそうであったように、人間のただなかで、人間を深めていくほかありません。

ともあれ、ほんとうに、怒糞なヘタレ野郎の授業に参加してくださいましてありがとうございました。







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