覚え書:「今週の本棚:湯川豊・評 『真珠湾収容所の捕虜たち』=オーテス・ケーリ著」、『毎日新聞』2013年07月28日(日)付。




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今週の本棚:湯川豊・評 『真珠湾収容所の捕虜たち』=オーテス・ケーリ著
毎日新聞 2013年07月28日 東京朝刊



 (ちくま学芸文庫・1470円)

 ◇米情報将校が捉えた“捕虜である友人”の群像

 一九四二年に米海軍日本語学校に入学、一年後、海軍少尉としてハワイに赴任した情報将校がいた。彼は日本語学校で学び直す必要がないほど、日本語がよくできた。著者のオーテス・ケーリである。

 一九二一年小樽に生まれ、父・祖父ともに日本に長く滞在した宣教師で、祖父は同志社大学創始者新島襄の学友。当人は十四歳まで小樽の普通の小・中学校に通った。

 そういう若者がときにはべらんめえ調の日本語を駆使して、ハワイの捕虜収容所の管理にあたったのである。誰よりも収容所に入れられた日本人捕虜が「おったまげた」と、後にその一人が手記のなかで回想している(「解説」による)。この本は、捕虜収容所を管理する立場にあったケーリが、日本人捕虜の姿を克明に描いたもので、まずその点がめずらしい。日本語で書かれた初版は『日本の若い者』という題名で一九五〇年に日比谷出版社から刊行された。

 二十二歳の青年将校が収容所運営でとった方針は、「人間味」(と本人がいっている)を中心にすえることだった。そしてできるだけ捕虜の一人一人と話し合った。その結果、兵隊たちがケーリをしたってやってきて、友だちづきあいになる。

 「北川」は、東京の新聞社勤め、三十歳で召集され、中支、満州サイパンを経て、最後にグアム島で自発的に捕虜になった。日本は敗れる、そして自分の共鳴できる人たちが国の指導権を握る、と予測してはいるが、捕虜になった重苦しい心情を内に秘めている。

 「マーシャル」は、あの「地獄島」で投降した。質問に答えて、戦友の肉を食って島で生き残るより、投降したほうがいいと思った、といいきっている。親分肌の好漢で、のちにケーリの「宣伝工作」に協力した。

 硫黄島の捕虜であった「幡(ばん)さん」は、死闘をかいくぐってわずかに生き残った一人。そのためか、悪びれず胸を張っていた。三十三歳のこの男は、仲間の信望あつく、おやじと呼ばれていたのを、著者が幡随院長兵衛の一字をとって「幡さん」と名づけた。日本がこれからどうなるか、考えぬこうとしている人物で、解説によれば、後に『新潟日報』紙の社長になっている。

 ついでにいうと、捕虜は認識票を捨て、偽名を使っているのが普通だった。いちばん多い名前は「長谷川一夫」。

 しかし当然のことながら、ケーリの「友人になった」捕虜は少数派で、彼が「精神いっぱい」と呼ぶ軍人精神を叩(たた)きこまれた国粋主義者の将校・兵隊が多く、その内のボスが幅を利かせていた。このあたり大岡昇平の『俘虜(ふりょ)記』を米軍側から見たような記述が興味深い。

 ケーリは少数派を陰ながら後押しして、「寺子屋」なる学校をつくり、「新聞グループ」によって壁新聞もつくられるようになる。その動きがさらに進んで、有志の二十数名を別の収容所に移し、『マリヤナ時報』なる投降勧告ビラなどを作製した。情報将校は、日米の兵士を一人でも多く救うためにそれを推進した、と書いている。

 本書の後半では、ケーリの日本進駐後の活動が語られるが、いちばん心を打つのは、敗戦後の荒廃のなかで、必死で生活をうち立てようとしている元捕虜の「友人たち」と、とことんつき合う男の姿だ。ケーリはのち長く同志社大の教授を務めて、二〇〇六年に死去。

 私はこの本の存在を知らなかったが、一部では幻の名著として評価が高かったようだ。終戦六十八年目の夏、元の姿のまま復刊された意義は大きい。
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http://mainichi.jp/feature/news/20130728ddm015070026000c.html




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