書評:ジャン=ピエール・デュピュイ(永倉千夏子訳)『チェルノブイリ ある科学哲学者の怒り 現代の「悪」とカタストロフィー』明石書店、2012年。

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我々が悪と呼ぶものは、仮象の領域に属している。なぜなら、見ることができる者にとって、このいわゆる悪は、可能なもののうち最良の世界において善を最大化することに貢献するからである。技術文明は、原子力なしでやっていくことはできない。そして、その上にのしかかるリスクは、成長のために我々が払わなければならない対価なのである。目的は手段を正当化する。しかしこれには反駁しておこう。問題は、卵を割る人々があまりにしばしば理屈を並べたあげく、オムレツをつくらないことにあるのだ。
    −−ジャン=ピエール・デュピュイ(永倉千夏子訳)『チェルノブイリ ある科学哲学者の怒り 現代の「悪」とカタストロフィー』明石書店、2012年、84頁。

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ジャン=ピエール・デュピュイ『チェルノブイリ ある科学哲学者の怒り 現代の「悪」とカタストロフィー』明石書店、読了。「〔様々なリスクの〕この不確実性を考えるにあたり我々が用いている概念手段は、ほとんど役に立たない」。原題は「チェルノブイリより帰る 怒れる男の手記」。

現地での見聞と欧州での事故の被害評価の落差に対する「怒り」は、その根本的原因へ探究に著者を誘う。有責性を科学的に排除する科学的合理性の欺瞞と道徳的感受性の欠如が指摘される。『ツナミの形而上学』に続く論考。

安全性を信じること(信仰)と、核抑止力という信仰(行使されず効力を持つ力)も本質的には、核という「本来の神に遅れてやってきた」超越性の二次的神聖化。現代の超越性の欺瞞とは「常に不発が求められる」こと。

「最悪のことが起こるであろうと信ずることができないということ」。「考えることのできない未来」を考えるためには時間概念の改める必要がある。




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