覚え書:「<東日本大震災>宗教が果たした役割とは 不安な夜、頼り、支えられ」、『毎日新聞』2013年11月21日(木)付。
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<東日本大震災>宗教が果たした役割とは 不安な夜、頼り、支えられ
毎日新聞 11月21日(木)
<東日本大震災>宗教が果たした役割とは 不安な夜、頼り、支えられ
300人を超える住民が犠牲になった宮城県東松島市野蒜地区。全国から集まった青年僧侶約300人が巡礼、鎮魂の読経が海岸に響いた=2013年11月13日、小川昌宏撮影
失われたおびただしい「いのち」への追悼と鎮魂こそ、私たち生き残った者にとって復興の起点である−−。東日本大震災復興構想会議は2011年6月25日、「復興への提言」の復興構想7原則の第一にこう掲げた。まさに宗教の使命といえる。大災害に直面したとき、宗教はいかなる役割を果たし、人々の信心、宗教意識はどう変わったのだろうか。【文・内藤麻里子】
◇不安な夜、一心に 頼り、支えられ
「2階に仏様がいるから早く上がれ!」。富田豊子さん(71)は、弟(当時66歳)の叫びが忘れられない。母(97)と共に2階に上がって難を逃れたが、弟は手すりに手を伸ばした瞬間、目の前で押し寄せた津波にのまれていった。
あの日、岩手県釜石市の自宅で震災に遭った。不安と恐怖の中で、ふと「法華三部経」をあげようと思った。法華経系各派では大事なお経だ。親子2代の立正佼成会会員。母をあるだけの布団でくるみ、一心に唱えた。「この夜を過ごせたのはお経のおかげ」
「なぜ弟が死ななきゃならないの」と、今でもつらさは残る。「信仰が揺らがなかったと言ったらうそになる」。それでも「死は誰にでも訪れるものであり、どう生きたかが大事だ」という庭野日鑛(にちこう)会長の法話に接し、少しずつ弟の死を受け入れられるようになった。家では外でのことを語らなかった弟だが、地域の人や同会会員が共に悲しんでくれ、「こんなことでお世話になった」と話してくれることが驚くほど多かった。「最近、弟ときょうだいでよかったなとつくづく思います」
ここに信仰の姿がある。頼り、支えられ、現実を受け入れ、生きる意味や目標を獲得する。被災者は宗教に何を求め、また宗教者はこの苦難にどのように向き合ったのだろうか。
「ながきは人の願いにて短きものは命なり」
津波が襲った巨大防潮堤の上で今年9月11日、鈴(れい)をつきながら和讃(わさん)(釈迦(しゃか)などをたたえ先祖を敬う歌)を唱える女性たちの姿があった。岩手県宮古市の田老(たろう)地区にある唯一の寺、曹洞宗常運寺の梅花講の人々だ。曹洞宗には詠歌・和讃を唱える講がある。唱える楽しさの中で信仰を学ぶ場だ。「津波があったからといって日常を変えたくない」と、月2回の練習に仮設住宅や自宅から通い、四十九日や一周忌など節目に防潮堤で唱えている。
この梅花講を支える住職は「(田老地区では)200人近く亡くなっている。その死を前にベラベラしゃべれない」と、取材には応じてこなかった。しかし、数々のエピソードが住職の姿を物語る。例えば、被災者がまだ避難所にいた頃のことだ。首をつって死ぬという匿名の手紙が届いた。住職は避難所に乗り込み「これ書いたの誰だ? このばかやろうどもが。いつまでも被災者面して甘えてるんじゃねえ!」と怒鳴りつけた。帰ろうとすると檀家(だんか)の一人が寄ってきた。「人間関係がぐちゃぐちゃしてしょうがなかった。一喝してくれて助かった」と口にしたという。
何と乱暴なと思うかもしれないが、日ごろの結びつきが強いからこそ、言えた言葉だったのだろう。「がっぷりつき合って普通に話ができるからな」とだけ、住職はつぶやいた。
◇避難所の機能も
門を閉ざしたケースはあったものの、被災地で津波を免れた宗教施設は、避難所としても機能した。
宮城県気仙沼市の曹洞宗清涼院=三浦光雄住職(66)=には、仮設住宅ができるまでの5カ月間、被災者らさまざまな人が出入りした。2年前に妻を亡くし、「ご愁傷さま」と周囲からいくら声をかけられても慰めにならないことを知っていた三浦さんは、ただ被災者に寄り添った。少し落ち着くと酒とつまみを用意して、ボランティアを交え夜通し話をした。そんな雰囲気の中からボランティア同士でゴールインする例も生まれた。
同じく気仙沼の早馬(はやま)神社=梶原忠利宮司(73)=は浸水し、さらに階段を上った先にある小さな境内にある社で約20人が2日間暮らした。梶原さんは、ボランティアでも他宗派・他教団の支援でも、何でも受け入れた。集まった物資を一軒一軒配って歩いた。
進んでいなかった自治体による宗教施設の避難所指定が、震災を機に増えたのも事実だ。稲場圭信・大阪大学准教授(43)が今年2月に実施した全国の自治体と宗教施設の災害協定の実態調査によると、協定を結んでいるのは43自治体で223施設。うち59・1%の132施設が震災後に締結されたものだった。さらに検討中の自治体は28あった。
◇徐々に新たな地縁
早くも秋の虫の音がする8月25日、福島第1原発から西に約40キロに位置する、福島県三春町の臨済宗福聚(ふくじゅう)寺で毎月恒例の「坐禅(ざぜん)会」が開かれた。住職は作家でもある玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さん(57)。約40人の参加者の中に、三春町の仮設住宅に住む富岡町出身の斎藤泰助さん(84)と、湊谷(みなとや)克巳さん(66)がいた。
放射線の影響で自宅には帰れない。斎藤さんは地元では曹洞宗の寺の檀家だった。用事がなくても月に2、3回は寺に顔を出していた。「それができなくなって、心もとなく寂しかった。いろいろ心のよりどころを探したけど、仏様は包容力が違うね」。湊谷さんは夫婦で東京から富岡に移住し、10年目に震災に遭った。三春で死後を託せる寺を探し、福聚寺に行きついた。「無縁仏になりたくないからお寺にすがった」
2人の仮設住宅がある平沢地区には、高台に共同墓地がある。昨年12月、地区の有志7人が参道横に「平沢復興六道地蔵」を建立した。ちょうど仮設住宅を見守る位置に当たる。開眼法要を頼みに玄侑さんを訪ねると、仮設の住民にも参加を呼びかけることを勧められた。有志の一人で区長を務める村田清人さん(64)は、「復興を願いながら一つのことをやり遂げて元気が出た。仮設の人も散歩がてら拝んでくれる」と話す。
寺を核にして、新しい地域の縁が作られようとしている状況を、玄侑さんはこんなふうに見る。「ここで結ばれた縁はやむにやまれぬ選択に思える。移転先も決まらず、先の暮らしの見えない中で現実的に今の安心を求める動きでしょう」
◇チリンチリン鈴の音…誰もいない 幽霊談続々、宗派超え心のケア
仙台市の火葬場で読経ボランティアをした僧侶らは遺族の悲しみに向き合った。その経験から、悲嘆ケアをする「心の相談室」が11年4月にスタートした。世界宗教者平和会議(WCRP)などが資金援助し、僧侶、牧師、神職ら超宗派の宗教者が対応する形で心のケアが広がっていった。
「カフェ・デ・モンク」は、お茶を出しながら被災者の話を聞く傾聴移動喫茶だ。こちらは宮城県栗原市の金田諦応(たいおう)・曹洞宗通大寺住職(57)が11年5月に始めた。金田さんは震災の夜、改めて宗教に出合う体験をした。
地震、津波に加え雪に見舞われた3月11日。雪がやむと、満天の星が目に飛び込んできた。「人がバタバタ亡くなった一方で、俺は星を見て生きている。これは何だ。我、彼の境目がなくなる『自他不二』という感覚にとらわれた。冷徹なこの現実をありのまま見ていた。しかも限りなく慈しみを注ぐ視点だった」。宗教家の原点といえる視線だろう。以前から自死問題に取り組んでいたこともあって、傾聴のノウハウは身についていた。仲間の僧侶と被災地を回り始めた。
また、1200カ寺と被災地の寺院数が最多の曹洞宗も、全国曹洞宗青年会が震災直後の3月に災害復興支援部を設立し、「行茶(ぎょうちゃ)」と呼ぶ傾聴を始めた。
行茶に通った福島県の40代の僧侶は、同年末から眠れなくなった。寝ると実体験もないのに津波の夢を見てしまう。酒に紛らわせて床に就くこと3カ月。仮設住宅に行くと、いきなり涙が止まらなくなる症状に襲われた。ある日、目が見えなくなり、激しい頭痛に見舞われ救急搬送される。行茶の後、リポートを書いてため込んだ感情を整理することの重要性を身をもって知った。参加するペースは落としたが、「やるしか選択肢はない。そのモチベーションで仲間の僧侶とつながっているので、継続できるのかな」。
曹洞宗復興支援室分室の主事を務める久間泰弘・龍徳寺住職(43)は「支援は何カ所かに限ろうかとも話し合いましたが、結局、3県すべてでパンクするまでやろうと。幸いまだパンクしていません」と話す。
カトリックのシスターでもある高木慶子(よしこ)・上智大学グリーフケア研究所特任所長(77)が、「傾聴ボランティアはお断りします」の張り紙を避難所で初めて見たのは震災の年の9月。やがて仮設住宅や集会所でも見かけるようになった。「宗教者だけでなくカウンセラーや医療関係者でもひたすら話に耳を傾け、内容は口外しないという傾聴の基本ができていない方が多い」と注意を促す。
傾聴の中では、幽霊談が頻繁に登場してくるという。阪神大震災でもあったが、今回はさらに数が多い。被災者だけでなく、工事関係者、研究者らも遭遇する。津波で壊滅したスーパー跡地を朝方通りかかると、行列している姿が見える。人をひいた衝撃があったが、誰もいない−−。
鈴木光・豪シドニー大学研究員は、昨秋2カ月ほど宮城県石巻市で後片付けのボランティアをしながら被災者の宗教心などに関する調査をした。石巻を離れる前に、あちこちに花を手向けて歩いた。小学校近くの橋の上に差しかかった時、向こうからチリンチリンと鈴の音が近づいてきた。ランドセルにつけた鈴のような気がした。でも誰もいない。川に花を投げながら歩く鈴木さんに、鈴の音はずっとついてきた。橋を渡り終え、「もうバイバイだよ。私は帰るからね」と言うと、まるで近くにいた子がUターンしたかのように、肘の上あたりにふわっと髪の毛かマフラーのようなものが触れたという。
傾聴している宗教者たちは、「これだけ一気に亡くなったんだ、出るのは当たり前じゃないか」と語る。供養を頼まれる僧侶も多い。慰霊碑を建て、鎮めることもある。
◇祭り、絆再び結ぶ
◇人が集まり地域に活気 「よりどころがほしい」
下谷神社(東京都台東区)の阿部明徳宮司(59)が、被災地で支援物資の手配をしていた11年4月初めのことだ。宮城県名取市・閖上(ゆりあげ)地区に入り、ある光景を目にした。
津波によって同地区の湊神社は土台を残すばかり。しかし、その土台に1円玉や5円玉の小銭の小山ができていた。さい銭だ。「こういう時こそ、こういう時だけかもしれないが、心のよりどころがほしいんだ」と気付き、仮のお社を寄贈する活動に乗り出した。
最終的に目指すのは、祭りの復興だ。「地域の文化に根差した行事。各地に避難している人たちが集まる機会になる。地域の絆を取り戻すためにも祭りは必要」と、みこしや山車の修復にも尽力する。
儀礼文化学会、国立文化財機構東京文化財研究所、全日本郷土芸能協会など4団体は「無形文化遺産情報ネットワーク」を設立し、被災地の民俗芸能と祭礼・行事、いわゆる祭りのデータを収集・公開している。調査の結果、3県で神楽、獅子舞などの民俗芸能約800件、七夕や火祭りなど祭礼・行事は約500件。再開も多いが、未定、情報なしの祭りも多い。
久保田裕道・東京文化財研究所主任研究員(47)は、「沿岸部の祭りの民俗学研究は内陸に比べるとあまり進んでいなかった」という。「こんなに多彩な祭りがあると震災後、初めて分かった。いまだにこれだけの芸能を楽しみにやっている地域はめったにない」。祭りの復興からは何が見えるだろう。
漁業が盛んな沿岸は、海に出れば常に死と隣り合わせ。神社への尊崇の念は深い。福島県いわき市にある大國魂(おおくにたま)神社の御神輿(おみこし)保存会「豊間海友会」会長、鈴木利明さん(72)は、遠洋漁業の船乗りだった。「神社に手を合わせ、沖を3回まわってから漁場に出ていった」。元の自宅があった豊間地区では「まずは神社仏閣から」と、蓄えていた区費で2神社に鳥居を建てた。
大國魂神社では、お潮採り神事を震災の年の5月に催した。だが、みこしは担げる状態ではなく、代表者が浜辺で神事だけ行った。「お正月が毎年やってくるように、年に1回の大事なお祭りをできるならやりましょうということ。何の不思議もありません」と山名隆弘宮司(71)。
震災前、鈴木さんは民宿を経営して繁盛していた。「民宿がなくなり、今後のことを考えると夜中に目が覚め眠れなくなった。山名先生(宮司)がいろいろ引っ張り出してくれなかったら、裏の山で首つってたと思うよ」。忙しさに救われる。そんな人たちが周囲に大勢いる。
豊かな港町だった岩手県山田町は、秋の例大祭ともなれば町中が盛り上がる。しかし、津波と火災の被害は大きかった。山田八幡宮、大杉神社などの宮司を兼ねる佐藤明徳さん(53)によると、氏子の中で半数を超える漁師が海から離れたという。津波に流された大杉神社では「祭りをやろう」との声が自然に上がり、11年から小規模に行ってきた。
今年9月、元々同社があった山の上の元宮に仮社殿が建てられた。伊勢神宮から木材提供を受けて、神社本庁が進めている復興支援だ。社殿ができたら祭りだとばかりに同月16日、震災以来、初めてみこしを担いだ。といってもそれは小型のみこしで、本来は本殿から祭り用のみこしにご神体を移す時に使うもの。あいにくの台風で船に乗せて海を渡る見せ場の「海上渡御(とぎょ)」は中止となったが、惜しむようにみこしを担いだ。
本来のみこしは修復資金を募っている。神輿会会長の上林善博さん(37)は両親と妻、末っ子を亡くした。「神輿会のみんなに支えられた。生き残った者が元気にやっていることが供養になるんじゃないですか」
◇鎮魂の巡礼
背丈ほどの草に覆われ、家々の基礎部分だけが残る更地に、青年僧侶約300人の読経が響いた。震災の津波で住民の約1割に当たる321人が死亡した宮城県東松島市野蒜(のびる)地区。震災犠牲者を追悼する巡拝慰霊法要が13日に営まれた。
全国から集まった全真言宗青年連盟(清雲俊雄理事長)の僧侶らが列をなし、土地や犠牲者の魂を清める土をまきながら巡礼。約40分間かけて地区を巡り、野蒜海岸では鎮魂の祈りを込めたホラ貝の音を響かせた=写真。【近藤綾加】
◇学者ら、傍観から支援に オウム事件反省
「大震災と宗教」を考えた時、今回、特筆すべきことの一つは多くの宗教学者が支援に向けて動いた点だ。従来は、調査はしても支援活動には関わってこなかった。
その姿勢を破った一つの理由に、オウム真理教事件への反省が挙げられる。1995年、同教団に強制捜査が入る前後、メディアは宗教学者に「オウムの危険性を教えてほしい」と依頼したが、断られるばかりだった。現実から距離を取って事実把握に努めるのが研究者であり、警鐘を鳴らすのは役割が違うからだ。
「オウム事件で傍観者だった反省はある。密着しても見えなくなるが、離れすぎても見えない」。島薗進・上智大学教授(64)は、震災翌月の4月1日に研究者と宗教団体による「宗教者災害支援連絡会」を設立し、代表に就任。避難所・支援情報などを提供した。超宗派での心のケア、活動の検証など地道な取り組みを続ける。
稲場圭信・大阪大学准教授らは2011年3月、「宗教者災害救援ネットワーク」を設置し、宗教者の救援情報、活動場所、義援金情報などを「宗教者災害救援マップ」に集約し、インターネットで公開。支援活動の情報源になった。その後、各教団の連携作りのため、全国8万件の指定避難所、20万件の宗教施設データをまとめた日本最大の「未来共生災害救援マップ」を作って公開した。
先に紹介した「心の相談室」の室長を務めた医師の故岡部健さん(12年9月死去)と共に、鈴木岩弓(いわゆみ)・東北大学教授(62)は昨年4月、同大に「実践宗教学寄附講座」を開設。心のケアに携わる宗教者「臨床宗教師」の養成を目指す。既に3期生まで約40人の研修修了者を送り出した。将来は病院や介護施設で受け入れられることが目標だ。「理系学部は技術によって世を変えられる。文系学部に即効性はない。でも今、世の中をいい方向に変える発信ができるチャンスが来ていると思っています」
◇若者の関心、高まる 入門書など人気
「お墓や供養について教えて」「自殺した親族のことが頭をよぎる」−−。仏事に関する質問や生きる上での悩みなどにお坊さんたちが答えるサイト「hasunoha(ハスノハ)」が、昨年11月始まった。創設したのは、元「YAHOO! JAPAN」社員のプロデューサー(43)ら男性3人だ。
震災直後の4月初め、お経を唱えつつ被災地を歩く盛岡市、石雲禅寺の小原宗鑑(そうかん)副住職の姿が話題になり、これが創設のきっかけだった。「仏教には葬式のイメージしかなかったが、その僧侶の写真を見て、仏教というか宗教の存在意義を実感した。宗教が必要だと思った瞬間です」とプロデューサーは話す。
東京に暮らす3人はすぐに企画案を立て、つてをたどって浄土宗光琳寺(宇都宮市)の井上広法副住職(34)に行きついた。回答するのは宗派を超えた僧侶50人だ。
1995年から始まった「学生宗教意識調査」(「宗教と社会」学会・宗教意識調査プロジェクト)によると、2012年の調査で非宗教系大学に通う学生1708人のうち、「信仰を持っている」「信仰は持っていないが、宗教に関心がある」が計58・1%と半数を超え、これまでで最も高い数字を示した。
震災以降、宗教入門書がよく売れた。例えば、11年5月刊の橋爪大三郎、大澤真幸共著「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)は30万部だ。社会学者の大澤さんは「現代人は宗教心を持っていないと感じている人は多いが、人間は生きることに意味付けや説明を求めるもの。不幸が起きると、それに初めて気づく」と話す。しかしその一方で、「問いはあるのに宗教はまだ答えきれていないように見える」と現状を分析している。
◇関連サイトのアドレス
仏事や生きる上での悩みなどに僧侶が答える「hasunoha(ハスノハ)」(http://hasunoha.jp:)
避難所や宗教施設をまとめた日本最大の「未来共生災害救援マップ」(http://www.respect-relief.net/)
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