日記:応答することの可能性として生みだされる私
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語りにおいて私は〈他者〉からの問いかけにさらされ、応答することを迫られ−−現在の鋭い切り先によって−−私は、応答することの可能性〔責任〕として生みだされる。責任あるもの〔応答しうるもの〕として、私は自分の最終的な実存に連れ戻される。こうした極端な注意は、潜在的に存在したものを現勢化するものではない。そのような注意は〈他者〉なくしては考えられないからである。注意深くあることが意味しているのは意識の剰余であり、その剰余は〈他者〉によって呼びかけられることを前提している。注意深くあるとは、〈他者〉による統御を承認し、その命令を受け入れることである。
−エマニュエル・レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限』上、岩波文庫、2005年、368頁。
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人は誰かの呼びかけに気づいたとき、その応答を拒絶することは難しい。呼びかけへの応答を拒絶することの困難性は存在の原初に定位するのかも知れない。
人を無視するな−−これをレヴィナスは、責任(responsabilite)と呼ぶが、他者の問いかけにさらされることによって、私は、応答することの可能性として生みだされる。
今日は帰省していた子供が東京へ戻ってきます。いない間は、静かで、まあ、いいものなんだナーなどと思っておりましたが、またその応答に応じていかなければならないと、などと思ったり。
さて……、1995年の今日はエマニュエル・レヴィナス師のご命日。
その学徳を偲びつつ。