日記:「一つの民族を愛したことはないわ.ユダヤ人を愛せと? 私が愛すのは友人.それが唯一の愛情よ」(ハンナ・アーレント) 映画『ハンナ・アーレント』印象録



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●クルトの家
 アーレントを迎えるリフカ.
アーレント 「リフカ,なぜ黙ってたの?」
リフカ 「クルトが“言うな”と」
 看護師についてクルトの寝室に入るアーレント
 クルトのアライ息づかいが聞こえている.
 眠っているクルトの傍らに座り、クルトの手に触れるアーレント
 ベッドに置かれている新聞.
アーレント 「クルト,一体どうしたの?」
 目を開けたクルト.
 微笑むアーレント
クルト 「今回はやりすぎだ」
アーレント 「今日はやめましょう」
クルト 「今回の君は冷酷で,思いやりに欠けてる」
アーレント 「全部読めば分かるわ」
 新聞を手にするクルト.
クルト 「読もうとした」
アーレント 「私より他人の意見を信じるの?」
クルト 「イスラエルへの愛は? 同胞に愛はないのか? もう君とは笑えない」
 顔を背けるクルト.
 アーレントの顔から微笑みが消える.
アーレント 「一つの民族を愛したことはないわ.ユダヤ人を愛せと? 私が愛すのは友人.それが唯一の愛情よ」
 クルトの肩に手をかけ、顔を寄せるアーレント
アーレント 「クルト,愛してるわ」
 アーレントに背を向けるクルト.
 黙ってクルトの身体に手を置くアーレント
    −−『マルガレーテ・フォン・トロッタ監督作品「ハンナ・アーレント」パンフレット』岩波ホール、2013年、30頁。

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鑑賞から1カ月近くたっていますが、少しだけ映画『ハンナ・アーレント』の印象録を残しておきます。

「悪の凡庸さ」と善悪・美醜を見分ける「考える力」についてはほとんど言及されまくりですので、それ以外の点でひとつだけ、これまたアーレントらしいなというところがありましたので、その部分をご紹介しておきます。

アーレントが「ニューヨーカー」誌にアイヒマン裁判の傍聴記を発表して以来、アーレントは「反ユダヤ主義」とのレッテルを様々な人々から投げつけられます。

作中でもその様子は脊髄反射の「狂気」の如く描かれておりますが、イスラエルからやってきたジークフリートが、盟友クルト・ブルーメンフェルトの体調が優れないことをアーレントに伝え、アーレントは再びイスラエルへのクルトの家を訪問します。そこでのやりとりが非常にアーレントらしいのです。

アーレントアイヒマンの「凡庸さ」を指摘することに、クルトは怒りを隠せない訳ですが、そのなかで、

クルトは「イスラエルへの愛は? 同胞に愛はないのか? もう君とは笑えない」といい、アーレントは「一つの民族を愛したことはないわ.ユダヤ人を愛せと? 私が愛すのは友人.それが唯一の愛情よ」と応える。

自ら反ユダヤ主義のヨーロッパで虐殺の恐怖と隣り合わせで生き抜いたアーレントユダヤ人に対する所行を知らぬわけがない。しかしながら、「私が愛すのは友人」と応える。

属性が先立つわけではないし、アーレントに愛がないわけでもない。しかしアーレントのこの発言はひとつの勇気ある発言なのではないか、そしてひととひとがどう繋がるのかということに関して極めて大切なポイントを吐露している……のではないかと。

誠実に生きるとは一体、何なんだろうか……。アリストテレスを引けば、身近なところに注目するしかないのでしょう。それは枠組みの違う誰かにそれを決めてもらおうとすることではない。それがdenkenの意味である。

後日、アーレントは、講演「暗い時代の人間性について」のなかで、友情について論じておりますので、以下にその抜き書きを紹介しておきます。


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 私がここで友情という話題を取り上げたのは、それがいくつかの理由から人間性の問いに関して極めて重要な意味を持つように思われるからですが、この友情というテーマを経由して、再びレッシングに話しを戻しましょう。周知のように古代の人々は、人間の生活には友人ほど欠かせないものはない、更に言えば、友人のいない生はそもそも生きるに値しないとさえ思っていました。しかしながら、そこには、不幸の中で友人の助けを必要とするような発送の出番はほとんどありませんでした。彼らはむしっろその逆に、人間にとって、他者、つまり友人が共に喜んでくれない幸福はあり得ない、と確信していたのです。無論、真の友人には不幸の中で初めて出会えるという諺の知恵にも一理あります。しかし、私たちが不幸によって教えられるまでもなく、自然に真の友人とみなす相手というのは、私たちが躊躇なく幸福を見せてやりたいと思う人、この人となら喜びを分かち合えると思える人ではないでしょうか。
 私たちは今日、友情をもっぱら、友人たちが世界とその要求に煩わされることなく、互いに魂を開示し合える親密性(intimitat aウムラウト)の現象と見なすことに慣れています。この見解の代表者はレッシングではなく、ルソーです。この見解は、近代的個人の世界からの疎外(Weltentfremdung)に対応しています。実際、近代的個人は、あらゆる公共性を離れた、親密性の中での顔つき合わせた出会いにおいてしか自己を表明できないのです。そのせいで私たちには、友情の政治的重要さを理解するのが難しくなっているのです。アリストテレスが、「フィリア」、つまり市民の間の友情は、健全な共同体の基本的要請の一つであると書いているのを読んだ時、私たちは、彼がもっぱら市の内部の党派闘争とか内戦がない状態について語っていると考えがちです。しかしギリシア人にとって、友情の本質は会話の内にあるのです。そしてまさに持続的な相互の語り合いを通して、市民はポリスへと統合されると考えられていました。そしてそうした会話の中で、友情とそれに固有な人間性が有する政治的意味が顕在化してくるのです。なぜならそのような会話は(個人が自分自身について語る親密性の会話とは違って)、たとえ友人の現前性に対する喜びにかなり影響されているにせよ、共通の世界に関わっているからです。共通の世界は、人間たちによって持続的に語り続けられない限り、文字通り’非人間的’なものに留まることになります。世界が’人間的’であるのは、人間によって作り出されたからではありません。また人間の声が鳴り響くことを通して、人間的なものになるわけでもありません。会話の対象になった時に初めて、世界は人間的になるのです。私たちが世界の亊物にどれだけ強く影響されたとしても、世界がいかに深く私たちを刺激し、興奮させたとしても、私たちが、私たちの同輩と共に世界について語り合わない限り、世界は私たちにとって人間的なものにならないのです。会話の対象になり得ないものであっても崇高なもの、恐ろしいもの、あるいは不気味なものであるかもしれませんし、人間の声を通して世界の中に響きわたるかもしれませんが、”人間的”ではないのです。私たちは、自分自身の内で、そして世界の中で起こっていることについて語ることを通して、それを人間化(vermenschlichen)するのであり、また、そうした語りの中で、私たちは人間であることを学ぶのです。
 友情の会話の中で現実化するこうした人間性を、ギリシア人たちは「フィラントロピア philanthropia」、「人間への愛」と名づけました。フィラントロピアは、世界を他の人間たちと分かち合おうとする姿勢を通して明らかになります。その反対項、人間嫌い(Missanthropie)、あるいは、人間への憎しみの本質は、人間嫌いな人が世界を分かち合う相手を見出だせないこと、いわば共に世界、自然、コスモスを喜ぶに値すると見なし得る相手を見出だせないことにあります。こうしたギリシアのフィラントロピアが、ローマの「フマニタス=人間性 humanitas」に移行するに際して、いくつかの変化がありました。その中で政治的に最も重要なものは、ローマにおいては極めて多様な素性、血統の人々がローマ市民権を獲得し、世界や人生に関する教養あるローマ人たちの会話に参加することができたという事実に対応しています。こうした政治的背景のおかげで、ローマの「フマニタス」は、近代において「フマニテート=Humanitat aウムラウト」と呼ばれているものから区別されるのです。近代における「フマニテート」は、しばしば単なる教養幻想しか意味しません。
 人間的なもの(das Humane)が熱狂的なものではなく、むしろクールであること;人間性が兄弟愛ではなく、友情(Freundschaft)において証明されること;友情とは、親密で個人的なものではなく、政治的要求を掲げ、世界に関わり続けるものであることーーこれら全ては、私たちにはもっぱら古代の特徴に見えるので、『ナタン』という作品の内にこれと極めて似た特徴が見出されることに私たちは混乱してしまうのです。この作品は近代的なものですが、これを友情についての古典的演劇と呼ぶことは不当ではないでしょう。そうした要素の一つとして、作品に奇妙な印象を与えている、ナタンがテンプル騎士に、そして出会う人全員に対して発している「私たちは友人であるはずです、そうですね」という言葉があります。
 明らかにレッシングにとって友情は愛の情熱よりもずっと重要であったのです。
だからこそ彼は恋愛物語を手短に打ち切って、それを、友情へと義務づけ、愛を不可能にする関係へと転換することができたのです。この作品の劇的緊張はもっぱら、友情及び人間性と真理の間で引き起こされる葛藤にあります。これは近代人であれば違和感を覚えるかもしれない点ですが、そこには、古代に属すると思われる意識や葛藤への独自な近さが認められます。とどのつまり、そして最終的に、ナタンの知恵はもっぱら、友情のために真理を犠牲にする覚悟のうちにあるのです。
 レッシングは周知のように、真理について極めて非正統的な見解を抱いていました。彼はいかなる真理もーー神の摂理によって与えられたと思われるものも含めてーー受け入れようとせず、また、他人のものであれ、自分のものであれ一定の論証を通して導き出されてくる”真理”を押しつけられることを拒みました。もし彼を、「ドクサ=意見」か「アレテー=真理」かというプラトン的な二者択一の前に立たせたすれば、彼がどちらを選ぶか疑問の余地はないでしょう。
    −−ハンナ・アーレント仲正昌樹訳)『暗い時代の人間性について』情況出版、2002年、47−51頁。

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(以下は小ネタ的な蛇足)
個人的には、学部の第1外国語がドイツ語で佳かったとはひさしぶりに実感した(ドイツ語で単位を落として留年したし、後期博士はフランス語で受験した)。劇中、『ハンナ・アーレント』の話者は巧みにそれを使い分けるのだけど、ヨーロッパ知識人がアメリカという対極で生きる雰囲気はもの凄く伝わった。


アーレントは、アメリカを『パラダイス』というわけなのだけど、ほんと、これは字義通りなんだろう。面倒臭くなければ、印欧語におけるその言語系譜を参照されたしw





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