日記:人間を「無効化」しようとする仮象にすぎないマモンへの永続的な抵抗


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 貧困で、無智で、社会情勢に暗い日本の農夫が田畑から引き離され、仏教の本義を教えられることはなく、偶像に犠牲を強いられることを教えられている。一方、ロシアのツーラ地方もしくはニジニ・ノブゴロド地方の貧困で無教養な人々が、キリスト教の本義はただキリストを礼拝することにあると教えられた。これは、普通の人々にとってわかりやすいことである。そして、これらの不幸な人々が数百年の間に受けた暴虐と欺瞞のために、人類、同胞(はらから)同士の殺戮という世界最大の罪悪を徳行として認め、ついにこうした恐るべき大罪を犯してしまった。いつのまにか彼らは、自分に罪があることさえわからなくなる。
 おかしなことに、いわゆる知識人が先頭に立って人々を誘導している。それだけではない。ひどいことに知識人は戦争の危険を冒さずに、いたずらに他人を扇動することのみに努め、不幸で愚かな兄弟、同胞を戦場に送り込んでいるのだ。そんなことに耐えることができようか。こういった知識人は、これが必ずしもキリスト教の教えにあるとは言わず(彼ら自身はキリスト教徒であることを認めているにもかかわらず)、戦争一般の認識が、残酷で無益で無意味なことについては認識しているのに、すべてを無視することにしてしまったのだ。
    −−レフ・トルストイ平民社訳、国書刊行会編集部現代語訳)『現代文 トルストイ日露戦争論』国書刊行会、2011年、15−17頁。

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私がなぜ、執拗に歴史修正主義や拝外主義(→排外)を始めとする国民国家の悪しき原理を否定するのかということについて少しだけ書いておきます。

本来、宗教とは国家を超えるものであります。宗教は国家を超えるもの? え、宗教権力より世俗の権力が上位になるに従い、宗教って国家に迎合してきた歴史じゃないですか、と言われてしまえばそのことは否定しません。

もちろん、功罪はありますが、宗教がこの世のものを全て無効化してしまう性格を必然的に持つことはそれによって否定することはできません。

いわゆる世界宗教の始祖たち……世界宗教という表現自体が19世紀の宗教学やないけwと言われればソレまでですが、わかりやすいのであえて準拠します……は、まさにその時代の規範に無批判に隷属を強いられているひとたちの鎖を解き放ち、その所作が例えばひとつの民族とか共同体に収まらない根源的な射程を秘めていたことが、共感を呼び、その後の歴史になっていった訳ですよね。

さて、日本宗教史においては、「この世のものを全て無効化」する宗教の普遍性ないしは絶対的な規範はどのように展開したのかと誰何した場合、ごく少数の例外を除き、世俗権力との融和による保身がその歴史であったと思います。

僕はキリスト教が専門になりますが、近代日本宗教史を瞥見するに、キリスト教とてその例外ではありません。キリスト教は禁教から公認教へなることが第一の目的となりますので、三教会同によって皇運を扶翼するために国民精神を涵養することに同意します。しかし、キリスト教の説かれる三位一体の神は、国家宗教として頂点に位置する現人神を超越・批判する視座は内包しますので、内村鑑三をその嚆矢と見ることができますし、先の戦時下における批判と抵抗はキリスト者によって担われたといっても過言ではありません。

内村の言葉を借りれば、まさに、信仰者とは「警世の預言者」たるべし、ということです。よき市民としてあらなければならないことは言うまでもありませんが、仮象にすぎない世俗内での権力がそれを絶対的と錯覚して、良心と照らしてみるならば、その要求する「よき市民」像が相反するのであれば、普遍的な道理に従うほかありません。

歴史が示している通り、それはまさに命がけの業となりますが、キリスト教学を学ぶなかで、それを憧憬する私としては、それを私自身の倫理として生きていかなければならないと考え発信を続けています。

今長々と話したことは学問的な示唆によるものですが、もうひとつ、私の体験的な事柄についても言及しておきます。

それは何かといえば、青春時代において最大事件ともいうべき、宗教法人法の改悪の問題に関わったことです。改正する必要があったのかどうかをこれまた誰何すれば、改正によりより劣化してしまう法案であったがゆえにそれは「狙い撃ち」とも言うべきもでした。恩師との出会いもこの事件が契機ですが、そのなかで、思想やイデオロギー、宗教に関わりなく、いわば「人間」を「無効化」するものとは断固として対峙していかなければと思いました。その決意は未だに変わっておりません。

しかし、不思議なことに、そのとき、「平和のふぉーとれすと」を掲げる大学の教員は何をやっていたのでしょうか。ほとんどスルーというのが現実でした。

言論戦を展開するなかでも、ほかから呼んでこなければならない始末。お寒い状況でしたねー。これは当時も何度も話題になりました。そして自分はそうなってはいけないな、と思いましたですだよ。

現在の原発、秘密保護法、そして極右化する現在においても、これに抗うことは必要だと思い、私は私自身の研鑽と発信の往復は、学問に従事する人間だからこそ、それは責任だと思い、時には挑発するがごとき、厳しい言葉で、「虻」のように振る舞っております。

ブログとSNSだけやねん、ださーと言われればソレまでですが、何もしないことによって、気がついたら「軍艦マーチ」と歩調があってしまうのが、世の常です。

なので、私は、非常勤ですから発言に信頼性もありませんけれども、学問的理由とそれと関連しますが、その体験的由によって、誰がしなくても、人間を「無効化」しようとする仮象にすぎないマモンの批判は続けていくつもりです。







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