書評:山田晶『アウグスティヌス講話』講談社学術文庫、1995年。
山田晶『アウグスティヌス講話』講談社学術文庫、1995年、読了。筆者が北白川教会でアウグスティヌスについて「打解けた気分」で縦横に語った六話をまとめた一冊。1、アウグスティヌスと女性、2、煉獄と地獄、3、ペルソナとペルソナ性、4、創造と悪、5、終末と希望、6、神の憩い。定評を一新する好著。
賢母モニカとカルタゴ時代の同棲女性を扱う冒頭講話「アウグスティヌスと女性」が名高いが、2話「煉獄と地獄」、5話「終末と希望」に瞠目した。地獄に行く魂に希望はない。しかし、煉獄にゆく魂は清められるからその試練は「希望の苦しみ」である。
終末に対してどのように向き合うべきか。往々にして、真剣さゆえその準備の為に日常生活を放擲し過激な運動へ飛び込むか(全体主義的アプローチ)、ないしはとにかく自分の刹那的欲望を満たすか(個人主義的アプローチ)と極端になる。
前者は忘我的で宗教的にみえるが、そうではないし、後者は、計算的合理性から「醒めて」みえるがそうではない。聖霊は人を酔わすものでないし、単なるエゴイズムとは無縁であるのが信仰であり、終末を勝手に断定している所は共通する。
必要なことは、キリストの救いを信じ終末を「待つ」という態度だ。終末を待つことにより、信仰は浄化される。アウグスティヌスは蛮族蹂躙の中で『神の国』を著し、キリスト教的時間論を確立したが、その現実的認識に刮目させられる。
エセ宗教的忘我論、そして単純な利己主義を退けながら現実に関わっていくというアウグスティヌスの立場は、現代の我々の批判精神の早急さと、現状に対する諦めを厳しく批判するものだ。道元とのすりあわせもあり、スリリングな一冊である。