書評:宮島喬『多文化であることとは 新しい市民社会の条件』岩波書店、2014年。

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宮島喬『多文化であることとは 新しい市民社会の条件』岩波書店、読了。グローバル化と人口減少社会の到来は、異なる人々との共存を必然する。違いを認め対等な関係を構築し、相手の立場で考えることが必要になる。本書は欧州の移民問題を研究する社会学者の手による「多文化共存社会」実現の処方箋。

「差異」とは、自分の差異が人から商人されていて、違ったままでいても処罰や排除の不安がないこと(Z・バウマン)。内向きなナショナリズムが強まり、同化を共生と勘違いする文化をスライドさせる上で本書は非常に有益な一冊。

終章で在日外国人への差別煽動に言及。国家間に緊張があっても、身近に生きる異文化の人とはそれとは全く関係がない。そこから連帯可能性を感じることが必要であろう。「その可能性には、筆者は悲観的ではない」。背中をおされる。
 

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問われる歴史の教育、アジア理解
 ここで社会学的な考察を挟むと、日本人のマジョリティがこのような認識にくみしているとはとうてい思えないが、判断する文脈から過去の事実が排除され、切り離され、現在だけの視点から物事がみられるとき、短絡的な判断がみちびかれる。たとえば、在日コリアンの「特権」云々の議論も、過去の歴史を知らない、教えられない世代にはもっともらしく聞こえる恐れなしとしない。今日、主にネットとテレビメディアを通して知識を獲得する世代は、歴史的認識を通して現在起こっている事実の意味を読み解くという構造化された知識を身に着けているだろうか。そうした知識は、書物、新聞、そして継続的教育を通してこそ獲得されるものだろう。
 今、改めて感じるのは、アジアを中心として歴史についての日本の教育の貧困である。「風化」という曖昧な言葉を使いたくない。むしろ、「風化」という言葉は不適当で、もともと戦後の日本の教育のなかでは、“これだけは知らなければならない”として、真に、アジアへの植民地化や侵略の歴史が教えられなかったのではないか、と思うからである。国際環境の変化のインパクト、および政治による対韓国・朝鮮、対中国の緊張の造出に対し、今日の日本の、特に若者たちの意識が抵抗できないという点に大きな問題があろう。学校の歴史教育がそれだけのきちんとした情報とメッセージを送っていないことも問題だが、メディアの文化紹介にも、アジアを市場としかみていない経済人の功利的発言にも、過去のアジアへの植民地支配と侵略に反省と謝罪を表明した「村山(首相)談話」さえきちんと継承しようとしない政治家の姿勢にも、問題があろう。
 しかし一社会学徒として筆者が強調したいことは、外なる国家間関係とは別に、内なるアジア、あるいは内なる多文化に目を向けることである。仮に国と国のあいだに緊張はあっても、今、日本の地域、職場、学校のなかに生きているコリアンや中国人やその他の外国人は、それとは関係ない人々である。この区別に立って、滞在の年月を重ね、日本社会とつながりをもつ、またそうでなくともこれから社会に参加しようとしている外国人や「つながる人々」を、同じ住民、さらに連帯可能な市民と感じることこそがもとめられる。その可能性に、筆者は悲観的ではない。
    −−宮島喬『多文化であることとは 新しい市民社会の条件』岩波書店、2014年、267−268頁。

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