日記:吉野作造とキリスト教:「人間は神の子にして皆同胞であるとの思想」を生きるということ

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予は時に自分の生徒の先入主なき直覚的な頭に感ずる思想に、世界的の脈拍が影響して居ることを発見して愕然として密かに自らが一個の型にはまらんとしつゝあるかを驚くことがある。此世界的脈拍の根本義は何であるか、夫れは「人を信ずる」と云ふ点であると思ふ。人間を信じ、国民を信ずる。彼も我も同じであると云ふ真理に立脚する。かう見ないから悲惨なる戦争を敢てせねばならなかつた。自分と同様のものであると思へばなかなか戦争は出来ない。此の、「あはれな境遇が悪いから弱いのであるが、適当なる境遇におけば立派になれる」と云ふやうな人生観、即ち人間は神の子にして皆同胞であるとの思想は基督教的精神である。
 現代の世界を動かしてをる思潮の根底は、此神を中心としたる人類同胞の確信である。
    −−吉野作造(講演筆記文責記者)「宗教家の社会的任務」、『開拓者』開拓社、1921年10月。

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吉野作造の人間観の核にあるは「人間は神の子にして皆同胞であるとの思想」(神子観)であり、これを海老名弾正から学んだ。

民本主義を掲げ社会改造を目指した吉野作造は、右からは「天皇制国家と抵触する」と批判され、左からそのやり方が「手ぬるい」と否定された。

吉野は「思想には思想を以てせよ」と論難には応ずる。

しかし、その批判者も吉野にとっては「神の子にして皆同胞である」訳だから、思想には思想を以てしても、その「人格」そのものを否定することは無かったし、例えば、天皇親政論者の上杉慎吉とは人間としては温かい交流を続け、無政府主義者大杉栄とも親しく交わり、第二次大戦後戦犯容疑をかけられる大川周名が東京帝国大学に博士論文を提出する際は、その取り次ぎの労を自らかってでている。

「すべての人間を尊重する」ということを「言葉」として表明することは、たやすい。しかしそれを実践することははなはだ困難がつきまとう。特に考え方が全く違い相手に対しては、頭のなかでは「すべての人間を尊重する」と思っていても、人間として扱わず単なる「敵対者」扱ってしまう事例には枚挙のいとまがない。

思えば、「イェルサレムアイヒマン」の中に、悪の凡庸さを見いだしたハンナ・アーレントはその返す刀で、敵対者を悪魔化する、抽象化して扱う人間をも照射させてしまったが、吉野作造の足跡を丹念に追跡すると、見事にその短絡さを退けている。



5月25日は、吉野作造記念館にて、「吉野作造キリスト教」と題し、吉野作造の信仰の軌跡について少々をお話をしてきましたが、吉野作造を学ぶ、そして吉野作造を研究することとは、自らが吉野作造として生きていくことであらなければならない−−そんなことを痛感させられた一日でありました。

お話を聴きに来てくださったみなさま、そして吉野作造記念館のみなさま、短い間ではございましたが、ありがとうございました。

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