日記:灯ともる昼の廊下を行きつけて、吉野作造先生この部屋にいましき

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 それでは、吉野先生の本質はどこにあるか。ここに「先生とキリスト教」という問題が出て来る。この点は『世界』(一九五五年四月号、一〇〇頁)の座談会の中でもふれられていますが、たしかに、先生は内村鑑三先生とは無関係だった。ただ、吉野先生は本郷教会の有力な会員であられた。従って海老名(弾正)先生の影響があったのは事実だろう。しかし、この点でも、先生は、おそらく海老名先生ともちがうのではないか。吉野先生には、吉野先生のものがあった。先生独自の境地があったのではないかと思う。これは私どもの学ばなければならない点である。私どもは、とかく、ゾルレンとザインとの間にたえず苦悶している。ところが、吉野先生の場合には、もちろん、この二者があるにはちがいないが、それは外いはあらわれていない。ゾルレンとザインが一つになっている。そこに一つの調和がある。先生は何もいわれないけれども、無言の伝道をされたのである。先生の言動には、深いそういったものがあった。ここに、吉野先生がマルキシズムになり得なかった理由がある。なによりも、先生のそうした一体となったナツア(Natur)に、私は打たれた。
 それについて、吉野先生が病院に入院されたとき、私は、おそらく長くないだろうから、お元気なうちに一度ぜひお見舞いしたいと思って、高木(八尺)君と一緒にお伺いしたことがある。先生は、死を前にして、きわめて当り前、きわめて自然にふるまっておられた。これは東洋流にいえば、達人である。悟りに入った人である。その先生を失ったことは、まことに大きな打撃であった。
 吉野先生は、満州事変は知っておられたが、日中戦争のことはご存知なかった。それから第二次世界大戦となった。この間、私は事あるごとに、先生のことを思った。私は、日記がわりに短歌をつくっているが、昭和十四年のくだりに、一首、先生のことを詠んだ歌がある。昭和十四年といえば、学内では河合(栄治郎)事件の真最中、外では日中戦争がはじまっている。ドイツからはケルロイターが来ていた。このときにあたって、先生のことを想った。
 灯ともる昼の廊下を行きつけて、吉野作造先生この部屋にいましき
    −−南原繁吉野作造先生の思い出(吉野博士記念会・例会録(第八回) 1955年3月26日、於学士会館」、丸山眞男福田歓一編『聞き書 南原繁回顧録東京大学出版会、1989年、233−234頁。

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南原繁は、吉野作造に直接学生として学ぶことはなかったし(吉野が留学時代)、教員時代の重なりも薄い。しかし、その謦咳に接し、「先生のそうした一体となったナツア(Natur)に、私は打たれた」と評価する意義は大きい。

吉野作造が「有機的知識人」であるとすれば、南原繁は自称する通り「現実的理想主義者」である。しかしその「現実的理想主義者」は、吉野作造に学び、自ら、次代の吉野作造たらんとした意志の発露とも捉えることは不可能ではない。

繋がらなかった点と点、線と線がつながりはじめたような予感です。




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