覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『日日の麺麭・風貌』=小山清・著」、『毎日新聞』2014年08月24日(日)付。
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今週の本棚:荒川洋治・評 『日日の麺麭・風貌』=小山清・著
毎日新聞 2014年08月24日 東京朝刊
(講談社文芸文庫・1512円)
◇文学の新しい情景を創り出す名品
<けれどもその静かな生活のたたずまいの中にいる青年の無心なさまを眺めると、たとえば光りを浴び風にそよぐポプラの梢を仰いだときに僕の心の中でなにかがゆれるように、僕の心に伝わってくるものがある。>
本を読む隣家の青年、芋屋のおばあさん、炭鉱の仲間、古本屋の娘……。市井の出会いをつづる「落穂拾い」など小山清(一九一一−一九六五)の代表作を収める新しい文庫だ。
小山清は東京・新吉原の生まれ。父は盲目の義太夫語り。十七歳のとき洗礼を受ける(のち離籍)。中里介山の塾を出てから新聞配達をし、夕張炭鉱で働いたあと小説を書いたが五十三歳で死去。第一創作集『落穂拾ひ』(筑摩書房・一九五三)など生前の小説はたった四冊。活動期間は十年ほどだが、清らかで、あたたかみのある作品はいまも読者を魅了する。
全集は二つ。『小山清全集』全一巻(筑摩書房・一九六九)『小山清全集 増補新装版』全一巻(同・一九九九)。
文庫は、切れ目なく出る。『落穂拾ひ・聖アンデルセン』(新潮文庫・一九五五)『落穂拾ひ』(角川文庫・一九五七)『落穂拾い・雪の宿』(旺文社文庫・一九七五)『落穂拾ひ・聖アンデルセン』(新潮文庫・一九九四復刊)『日日の麺麭(パン)・風貌』(講談社文芸文庫・今回の原版・二〇〇五)『落穂拾い・犬の生活』(ちくま文庫・二〇一三)。単行本では、新版『小さな町』(みすず書房・二〇〇六)も刊行された。本がなくなると、どこかでまた出る。小山清をめぐる時間は、これからもそのように流れていくのだろう。こうしてぼくは通いなれた道を歩くように書き進めているけれど、そうではない。本書で短編「聖家族」を読み、小山清の新たな世界を知ったからだ。
「聖家族」は、一九五四年の作品(『日日の麺麭』収録)。この文庫(原版と今回の版)まで文庫収録はない。小山清の師・太宰治とともに主要作が同居した希少な一冊『近代日本キリスト教文学全集9』(教文館・一九七五)と全集には再録されたものの、あまり知られていない。「聖家族」は、イエスと母マリア、父(養父)ヨセフの日常を描いたもので「落穂拾い」などとは別種の感興がある。
水瓶(みずがめ)を頭に載せた農婦がやってくる。ヨセフは声を出す。
<「うちのかみさんを見かけなかったかね。」
「見たともさ。マリヤさんなら水汲場にいるよ。」>
うわー、楽しい。中世以来たくさんの画家、作家が聖家族を題材にしたけれど、ちょっとこれは特別だと思います。「うちのかみさん」だもの。くだけた表現ばかりではない。幼子イエスのかわいい表情、そのイエスを見守る父と母。日々のようすが親しみのある、ゆたかなことばでつづられる。疲れ果てて訪ねてきた青年が、イエスの頭上に神の光を見るという夜の場面もある。すてきな小説だ。
エッセイ「聖家族によせて」(小説「聖家族」の一年前に発表・『幸福論』と全集に収録)を読むと、「地上のあらゆる母と子の姿の象徴」である聖母子だけではなく、その陰になったヨセフのことを、作者が心のなかでとても大事にしていたことがわかる。また「聖家族」は、これまでの描き方にも、見方にも引きずられることなく作者のイメージを果敢に打ち出したものである。小山清は市井の風景を起点に、文学の新しい情景を創り出した人なのだ。「聖家族」はその意味で日本の文学において大切な作品だと思われる。「風貌−−太宰治のこと」など、エッセイ二編を併録。
−−「今週の本棚:荒川洋治・評 『日日の麺麭・風貌』=小山清・著」、『毎日新聞』2014年08月24日(日)付。
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http://mainichi.jp/shimen/news/20140824ddm015070023000c.html