覚え書:「書評:仏教学者 中村元 植木雅俊著=若松英輔・評」、『読売新聞』2014年09月07日(日)付。

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仏教学者 中村元 植木雅俊著
角川選書 1800円
評・若松英輔(批評家)

知の土壌を耕す

 中村元は、二十世紀の東洋思想研究を牽引した碩学である。その研究範囲は著しく広く、残された業績もじつに大きい。彼の著作集は四十巻に及ぶ。古代インド哲学から出発し、伝播の歴史を追うように研究の領域も広がって行った。ギリシャ哲学、キリスト教、仏教はもちろん、すでに歴史の古層の奥深くに入っている思想、宗教にまで及んでいる。影響は日本だけでなく、世界に及んだ。
 著者は、晩年の中村の近くに接し、業績をよく読み込んでいる。その上であえて中村を「仏教学者」と呼ぶ。ここでの「仏教」とは、狭義の意味における宗教の一宗派ではない。いかに生きるかを問いかける東洋的叡智の精髄を意味する。
 叡智はいつも、誰にとっても開かれていなくてはならない、それが中村元の信念だった。
 学問とは学問を独占する者ではなく、一人でも多くの人にそれが用いられるようにする者でなくてはならない。また、あらゆる場所に生きなくてはならないと信じていた。医学、経済、法律も例外ではない。慈悲を欠いた科学の暴走を中村は強く憂えていた。
 大学を定年になってから中村は、「東方学院」という私塾を開き、より開かれた形で叡智の伝承を試み、後進の育成に力を注いだ。彼にとって研究とは知の土壌を耕すことだった。その姿はときに大地を耕す農夫を思わせる。そこで実ったものを中村は、手ずから人々に届けようとした。
 本書には、中村元という哲学者が歴史の遺産を背負い、歩いた軌跡が綴られている。この人物が何を語ったのか、著作からだけでなく、生き方からもすくいとろうとする。
 「仏教」は、論じられる対象であるだけでなく、体現される。「仏教」の神髄は、言葉を超えたもうひとつの「言葉」によって語られる、というのだろう。
 書かれるべき本が書くべき人物によって記された。良書である。
◇うえき・まさとし=1851年、長崎県生まれ。仏教思想研究家。91年から東方学院で中村にインド思想を学んだ。『仏教、本当の教え』など著書多数。
    −−「書評:仏教学者 中村元 植木雅俊著=若松英輔・評」、『読売新聞』2014年09月07日(日)付。

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