覚え書:「発言:『私だけの古典』を見いだそう=紅野謙介・日本大学教授」、『毎日新聞』2014年10月30日(木)付。
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発言:「私だけの古典」を見いだそう=紅野謙介・日本大学教授
毎日新聞 2014年10月30日 東京朝刊
二度三度とふれるたびに発見がある。それが私にとっての古典だと思う。世評に高い、いわゆる「古典」が必ずしもすべてのひとの古典になるわけではない。だからひとりひとりにとって古典となる文学や映画などがある。
その人なりにどのような古典を持っているか。読み返し、見返すたびに、どのような発見を伴ったか。道徳教育を強化するよりも、まずそうした自分の古典を見つけること、そしてなぜそれが自分にとって古典になるのかを考えることが「教養」の一歩になるのだと思う。
15年くらい前のことになるが、教えていた学生のひとりが国会議事堂の地下にある書店に取材にいった。国会内に本屋さんがあるというのも初めてそのとき知った。そのときのご主人の話では、国会議員やその秘書が主な顧客だという。
ところが、以前の議員たちはふだんからたくさん本を買っていたが、最近はさっぱり。何か論議となっている法案が出ると、関連本が売れる。しかし、それでいいのかという話になったという。面白い話でちょっと記憶に残った。
それから十数年である。アマゾンのようなネット販売が盛んになった現在、もっと本の売れ行きも落ちたことだろう。しかし、政治家ひとりひとりがどのような本、どのような映画にひかれ、何をもって自分の古典としているのか、今むしろ知りたいと思う。政策通のひと、政局に力を発揮するひと、選挙区へのサービスに怠りないひと、さまざまだろうが、どのような本や映画、音楽に心を寄せるのだろうか。
人物の奥行きはそれで分かるところがある。司馬遼太郎とすぐ答えが返ってきて、「坂の上の雲」だというのなら、そのひとがほんとうに司馬のことを好きなのではなく、まわりに合わせているだけだと疑いたくなる。ふだん本を読んでおらず、マスメディアが取り上げるものだけを読んでいるひとではないか。そんな見当をつけてしまう。「坂の上の雲」のどこが好きなのか、つづけて尋ねたら真偽が分かる。
政治家は忙しい。そんなことは分かっている。だからこそ本を読み、映画を見てほしい。多忙を言い訳にしているひとは、目の前のことに応接するだけで手いっぱいなのだろう。しかし、この国のかたち、社会のありようを探るのに、そんな忙しさでは思索もできない。余裕を失ったひとたちが作る将来に、ゆとりある社会があるはずもないと思う。
もちろん、これは政治家だけのことではない。この本屋さんの嘆きは日本中の本屋さんの嘆きでもある。べつに万葉集や源氏物語、トルストイや夏目漱石が古典なのではない。大事なことは、私だけの古典を見いだすことができているかどうかである。それは自分のなかにあるさまざまな声、声と気づかれないかすかなささやきに耳を傾けることにつながっている。私たちは自分が何者であるか、あらかじめ分かっているわけではない。ものにふれ、言葉に接して分かるようになる。古典を見つけることはその導きの糸である。
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■人物略歴
◇こうの・けんすけ
幅広い視野で日本の近代文学を研究。著書に「書物の近代」「検閲と文学」など。
−−「発言:『私だけの古典』を見いだそう=紅野謙介・日本大学教授」、『毎日新聞』2014年10月30日(木)付。
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http://mainichi.jp/shimen/news/20141030ddm004070014000c.html