日記:「池上彰と考える」……てもシカタガナイでしょうに。
ウーム、これはひどすぎじゃアございませんか? 日本分子生物学会。
http://mbsj.jp/admins/committee/careerpath/doc/careerpath_poster_2014.pdf
池上彰と考える これでいいのか 日本の生命科学研究”ってふられても、池上彰と考えても、日本の生命科学研究に関して創造的批判にはならんやろう。とりあえずヘビロテの人気「識者」を冠りしとけばよいという「考える」を否定する劣化企画と思われてほかない。
「わかりやすさ」自体を全否定するつもりはないし、導入としては大切だとは思うけれども、それで「終わり」というコンビニエンスに問題がある訳で。
池上さんが出てきて「解説」してもまあええけど(いやいかん、そこから自分で知的格闘をしていかんといかんのに、それがスルーされるのが現代世界のスタンダードですから、多いに問題があると思われる。
耳学問自体も否定するつもりはないけど、結局、学問の基本というのは、どのレベルでもきちんとテクストを精読することなのに、そういう手間を「池上さんと考える」ことによって、「わかったつもり」になって終わっちゃう。これは本当に問題だと思う。
解説で済ませるのが良くないのは、人間の基本的なリテラシーを鍛える「読む」と「書く」を単純化させてしまうということ。
勿論水先案内としての解説はありでしょうけど、小学生が解答の○付けをするが如くの「解説」依存の自らの対峙なしになってしまうと本当に良くない。
解説や水先案内で啓発を受けて、では実際どうなのか。自分で「読む」そして「書く」ことによって、最初の認識の更新が初めて可能になり、どこまでも自分の外側にある知を自分自身の「知」へと引き寄せることができる。
「読む」と「書く」っていえば、そりゃあ、あんたのやっているような「人文科学」の話やろうと言われそうですけど、「読む」→「書く」というプロセスは、データや実験をもとに何かを論証していくという意味では同義だから、社会科学や自然科学も例外ではない訳でね。手順を省くとアウトですよ。