日記:簑田胸喜による矢内原忠雄批判

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昭和初期、言論抑圧で重要な役割を果たすのが民間の右翼言論人、とりわけ簑田胸喜になりますが、「狂信的」と形容するにふさわしい言論活動で、数々の良心を屠ってきましたが、まさに「狂信的」であるが故に、その実際の研究というのがほとんどされていないのが現状と聞きます。少し「覚え書」になりますが、矢内原忠雄に対する批判の「形式」を残しておきます。


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 簑田による矢内原批判において注目すべき第二の点は、矢内原がクリスチャンであることそれ自体に異を唱えているわけではないことである。簑田にとって矢内原が非難されるべき理由のひとつは、矢内原が「エセ・クリスチャン」であることであった。
 簑田によれば、矢内原がイザヤの預言に真理としての平和の理想を見るのは、ユダヤ教ないし「ユダヤ神話」を盲進する結果である。しかも、矢内原は「日本神話」を盲進することを排撃していながら、ユダヤ「神話」を盲進するのは自家撞着であると簑田は断じる。
 さらに、矢内原が旧約聖書を権威としてよりどころにすることから、ユダヤ教キリスト教との相違をまったく無視していると簑田は推論し、このような混同を「無学」「無節操」であると痛罵している。そもそも、簑田によれば、ユダヤ教は「非人道的選民思想」であるが、そこから発生したキリスト教が「超民族的の世界宗教」へと成長しえたのは、キリストの信仰がイスラエルの神エホバを原理としたものであったが、それを「内的に深化し浄化したもの」だったからである。
 簑田にとって、キリスト者である矢内原がマルクス主義的な方法を植民政策研究で応用していることは、さらなる「思想的混乱または破綻」を示すものであった。つまり、「反宗教」すなわち「反キリスト教」的なマルクス主義に「媚態追従の態度を以て」『帝国主義下の台湾』をはじめとする学術的作品が書かれていることに、矢内原が「クリスチャン・マルキスト」「ニセ・クリスチャン」であることを看取できるというのである。
 簑田は、自分こそが真のキリスト教理解、真のイエス観を有していると自負していたようである。前述のように、矢内原による絶対平和主義的な聖書読解に対する反例を聖書の記述からいくつか取り出して批判している。そして、九州帝国大学で地質学者、教育学者として知られた河村幹雄のキリスト教信仰が、キリスト教の「全き日本化」を目指すものであり、かつて「祖国主義」者として真のイエス観を示すものとして簑田は称揚している。
 キリスト者を自認する矢内原に「エセ・クリスチャン」とレッテルを貼り、批判対象となる人物の信用失墜をはかるような言説を用いるのは、簑田が繰り返し用いた戦略であった。
    −−将基面貴巳『言論抑圧 矢内原事件の構図』中公新書、2014年、91−92頁。

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